からまる寝息



急いでドライヤーを終え、ミュートを解除する。


「お待たせ」
『んな待ってねえよ。ちゃんと乾かしたか?』
「うん。ばっちり」


スマホ越しに聞こえた満足気な低音は、先週となんら変わりない落ち着きを孕んでいた。些細な相槌さえ好きだなんて、我ながらちょっと可笑しい。鼓膜のすぐ傍で彼もつられて笑う度、心臓がとくとく脈を打つ。


週に一度、おやすみ前の通話が恒例になったのは、高校を卒業して半年経った頃。当時、進学するはじめくんを支えたい一心で迷いなく選んだ就職だけれど、これが思いのほか大変。同時期に一人暮らしまで始めてしまったものだから、なかなかゆっくり時間がとれない。記念日のお泊まりやたまのデートで精一杯な中、それでもお互い不満なんて微塵も抱かずマイペースに幸福を育てている内、大学を卒業した彼は海外へ飛んだ。立派に夢を叶えて帰国した今も東京で暮らしていて、残念ながらそうそう会えたものじゃない。

そんな感じの遠距離続き。恒例というよりは“いつの間にか癖づいた”といった方が、あるいは正しいのかもしれない。




『仕事、相変わらず頑張ってんだな』
「はじめくんほどじゃないけどね」
『そうか?まあ努力に一も二もねえだろ。偉い偉い』
「ありがと。そう言えば年末帰れるかもって話、進んでる?」
『おう、八割確定。けどまだふわっとしてて、わりぃ。日程決まったらすぐ言うわ』
「おっけ。のんびり待ってるね」


微笑みつつベッドに潜る。充電しながらイヤホンを使えるアダプターへ挿し替えれば、間もなく衣擦れの音が聞こえた。そろそろはじめくんも寝る時間。右上の雷マークが視認出来たところで、忘れかけていた暖房をつけて灯りを消す。

あーあ、まだ切りたくないのになあ。愛しい時間はいつも一瞬。

降り立った静寂が名残惜しさを伝染させて『なあ』と先に口を開いたのは彼の方。意図的に抑えているのか、単に眠気がそうさせているのか。さっきよりも小さなボリュームの呼びかけに返事をする。


『明日って朝早いか?』
「んーん、いつも通りだよ。六時……四十分には動いてるかな」
『起きんのは?』
「もうちょっと早いけど、なになに?もしかして起こしてくれるの?」


くすくす笑いながら、はじめくんと色違いで買った怪獣柄の毛布に包まる。

ほんの冗談のつもりだった。軽い気持ちだった。まさか本当に起こしてくれるだなんて夢にも思っていなかった。だって今まで、そんな提案を受けたことも話題にあがった覚えもない。けれど三拍置いて寄越されたぶっきらぼうな声は、真っ直ぐ肯定を紡いだ。明日は午後からの仕事で、丁度お前に合わせられるから、と。


『……嫌か?』


下からそっと窺うような言い方に、自然と首が横へ動く。見えてなんかないのに不思議。どうも他とは勝手が違う。はじめくんに対してだけは言葉を探すよりも早く体が動いて、やっぱりなんだか笑ってしまう。


「やじゃないよ。嬉しい」
『なら良かった。で、何時に起きんだ?』
「えーと……二十五分くらい」
『ん、了解』
「ただその、寝起き結構悪いと思うけど引かないでね……」
『ふっは、心配すんな。朝弱えの知ってる』
「助かります……。着信鳴るようにしとくね」
『え、お前この間、アプリの通知で起こされるって言ってなかったか?』
「あー……まあそうなんだけど……」


さすがはじめくん。好きな色や飲み物は元より、遠距離になってからというもの、話の合間にほんのり挟む些細なあれこれまで良く覚えてくれている。でもなあ。


「マナーモードじゃ鳴らないから……」
『?このままだとなんかまずいのか』
「ん?」
『マナーモードでイヤホンしてりゃ通知鳴らねえだろ』
「あ、通話繋いだまま寝よってこと?」
『おう』


頷いた声色は一瞬ドキリとした私と違い、ひどくあっさりしていた。モーニングコールの提案はしづらくて寝落ち通話は平気、なんて。彼の基準は一体どうなっているのか。朝電話をかけるより寝言や鼾の方がよっぽど気を遣うと思うのだけれど、果たしてこの感覚は女性だけのものなのか。

常夜灯も消えた暗闇の中、照れくささを押し込めながら「じゃあお言葉に甘えて」って目を閉じる。まるですぐ目の前にいるような距離で聞こえる『ん』がくすぐったい。穏やかなおやすみを交わした後、彼は『また明日な』と言った。どうやら、世間的な名称は“寝落ち通話”であるけれど“話している内に寝る”なんてことはしないらしい。付き合ってこの方、初めてのこと。それでも寄り添うのは絶対的な安心感。

静かな寝息が届くようになった頃、私の意識もとろとろ溶けていった。









『……――、――』


どこか遠くで声がする。産まれた時から知っているような心地よさ。まるで体の一部であるかのように、すうっと優しく染み渡る。ふんわり揺蕩う微睡みから、ゆっくりゆっくり引き上げられる。

だんだん鮮明になっていくそれは『なまえ、起きろ』と甘やかな朝を告げた。


「ん"、」
『お。なまえ?』
「……、……」


ああ、困った。きっと乾燥のせい。張りついた喉が上手く開かない。けれど目が覚めたことは伝わったらしい。左耳のすぐ真横。低く掠れた『おはよ』が鼓膜を撫でた。どこか愛おしげなそれがあまりに自然でかっこよく、昨夜同様見えてなんかないっていうのに、瞳を細めながら微笑むはじめくんが浮かんだ瞬間。挨拶を差し置いた「好き」がこぼれてしまった。

『……』
「……」

きっとびっくりしたのだろう。返された沈黙が、どうにも居た堪れない。もう恥ずかしいやら眠いやら嬉しいやら。いろんな感情がぐるぐる巡って、穴がなくても埋まりたい。朝ってダメ。自制心云々以前に、そもそも頭が働かない。想いばかりが膨らんで、他になんにも考えられない。

ベッドの中で燻りつつ、もそもそスマホを手繰り寄せる。画面上部で進み続ける通話時間はあえて見ず(だって起きたくなくなっちゃう)、ただ中央の6:29だけを視認した。まだ十分ゴロゴロ出来る時間。落ち着け私、起きろ私。朝からはじめくんの声が聞けるだなんてまだ夢を見ているような心地だけれど、今日も今日とて普段通りの仕事が待っている。


せり上がった欠伸を一つ。それから眠っている間に取れたのだろう右側イヤホンをつけ直し、小さく唸って喉を整える。幾分か覚醒した声で「ごめん、おはよって言いたかったんだけど順番が……」って陳謝すれば『いや、全然……なんか声違えとドキッとすんな』なんて、見事な爆弾を落としてくれた。どうやらはじめくんも頭が回っていないとみえる。大変心臓によろしくない。


「お泊まり以来だもんね。寝起きに話すの」
『だな。もう五年以上経つか』
「たぶん」
『結構長いな……わりぃ』
「何で謝るの。おかげで楽しみ倍増だよ」
『?』
「会えるだけで幸せんなれるもん」
『、ははっ』


電波越しに空気が揺れて、朝の陽気を纏った柔らかな笑い声が胸を打ち鳴らす。そろそろ起き上がらなきゃいけないのに『お前のそういうとこ、すげー好き』なんて嬉しそうに言うものだから、もう鼓動がうるさくって仕方がない。朝から死にそう。いっそこのままズル休みしたい。でもそんなの良くないって分かってる。会社への連絡とか業務の埋め合わせとか周囲の目とかいろいろ面倒事が増えてしまうし、はじめくんだって昼から仕事。一日中話していられるわけじゃない。スマホ画面には6:40。


「ごめん、そろそろ」
『もうそんなんか。ありがとな』
「こちらこそ。また話そうね」
『おう。じゃ、頑張れな』
「うん。行ってきます」
『行ってらっしゃい』


通話終了の音と共にベッドから抜け出す。洗面台の前に立てば緩みきった顔の私がいて、思わずちょっと笑った。はじめくんもこうだったら良いなあ。

さあ、年末までもうひと踏ん張り。余韻に浸るのはお昼休憩まで我慢して、今日もほどほどに頑張っていこう。

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