水槽の外で溺れるふたり



雨声が鼓膜を揺する。ビニールに弾かれ、アスファルトに吸い込まれ、幸か不幸か一向にやむ気配はない。ただ静かに降り続いては街を濡らす。傘を傾け、私を気遣いながら隣を歩く彼の左肩をじわじわ色濃く湿らせる。

弱ったなあ。風邪を引かせてしまったらどうしよう。私が傘を忘れたせいか、赤葦が優しすぎるせいか。

どっちもどっちだなあって、身を竦める。



雨が降っていることに気付いたのは、丁度片付けに入った頃。皆が部室へ向かう中、もう少し待てばやむだろうかと鍵を預かり、一人体育館に残った。もちろん傘がないと言えば誰か入れてくれるだろうけれど、残念ながらマネ仲間である雪絵もかおりも逆方面。レギュラー勢にお願いするのも気が引けた。

普段走り回っている館内でぼうっとしているのはなんだか落ち着かず、正面以外の出入口を施錠して回る。そうしたら皆と一緒に帰ったはずの赤葦が戻ってきて、いくら帰宅を促しても全然頷いてくれやしなくて。仕方なく、小降りになるのを待っているだけだからと白状すれば「一緒に帰りたいので送らせてください」と、渋る私を見越した狡い言い方で連れ出してくれた。


赤葦はいつも優しかった。気配り上手で穏やかでやわらかく。けれど凛とした、強い男の子だった。到底年下なんて思えないくらい、いつもいつも頼らせてくれた。甘えベタなあまり一人でどうにかしようとする癖がついている私のことを良く理解した上で、傷付かないような言葉を選んでくれる。まるで宝物みたいに大事にしてくれる。

でも勘違いはしない。自惚れてはいけない。赤葦は人気者だ。学園外にもたくさんのファンがいる。私のことは、あと少しで卒業するマネージャーだから丁重に扱っているだけ。だからあくまで部の先輩として、何かお返しが出来たらなあって考える。


手作りの食べ物……は、さすがに重いよね。テーピングやサポーターはどうだろう。消耗品が一番役に立てると思うのだけれど、部費で買える物は味気ないかな。いっそ、食堂でご飯代を出す方が良いだろうか。物じゃなくて現金だなんて、そんなことを彼が許すだろうか。こんな風にまた、余計な気を遣わせてしまわないだろうか。


「ねえ赤葦」
「はい」
「欲しい物、何かある?」
「……はい?」


立ち止まった彼に倣い、私も足を止めた。二人だけの傘の下「いきなりですね」と彼の声が反響する。いつもより心なしか澄んでいる綺麗な音。雨粒に反射して共鳴するからだと、何かの本で読んだような気がする。


「なんでも良いよ。靴でもカバンでも」
「……木兎さんの世話係、ですかね」
「そ……れは難しいなあ……」
「あ、くれるつもりで聞いてました?」
「うん。いつもお世話になりっぱなしだから、どうせなら欲しい物をって思って」


ぱちくり。見上げた先で、品の良い双眼が大きく瞬いた。そうして緩やかに細まり、ふ、と微笑む。「じゃあ一つだけ用意して頂けそうな、ずっと欲しいものがあるんですけど」と。屈んだ彼の鼻先が、ほんのり寄せられる。


「みょうじさん」
「ん?」
「俺、あなたが欲しいです」
「……」
「もし嫌なら、ちゃんと突き飛ばして」


交わったままの視線がゆっくり近付いて、反射的に瞼を閉じて。一瞬重なった唇が、もう一度。今度は確かめるように少し長く触れた。

ああ、なんて愛おしげな眼差し。自惚れても許されるかな。嬉しそうな、安心したような、照れくさそうな――「好きです」。

あたたかな想いが、なみなみ心を満たす。驚きと戸惑いと喜びと、いろんな情動が湧き上がって胸が熱い。体も顔も火照って仕方ない。手足が震えて、脳が痺れ。ただ引き寄せられるままに赤葦のコートへ、ぽすん。


「本当は、卒業の時に伝えようと思ってました」
「……うん」
「すみません。俺の方がいきなりで」
「ううん。その、……嬉しいよ」
「良かった。好きです、なまえさん」
「っ、わ、私も。……京治が好き、です」


頭上で笑った彼の片腕に抱き締められる。
二人分の心音が鼓膜を叩き、遠くで、雨が降っていた。

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