うつくしい息づきの終わりに



苦しかったっていうのは、ちょっと違う。でも他に、近しい言葉が見当たらない。勝己と過ごした小学校から高校卒業までの十二年。私じゃダメだって劣等感、それでも好きって恋心、立派なヒーローにならなきゃって焦りと不安。そんなものが皮膚の内側で混ざり合い、葛藤ばかりが私の愛心を喰い荒らし、やっぱり苦しかったっていうのはちょっと違うけれど、とても息がしづらかった。ただ、今よりは幸せだった――と、夜風に揺れるツンツン頭を前に思う。

あの頃よりも高い位置。こちらを見下ろす真赤の瞳は相も変わらず鮮烈で、ああ好きだなあって心の中で苦笑する。どうして私を引きとめたのか。明日に備えてこのまま帰るって。さっき切島には、そう言っていたのに。


「なに?」
「……」


元雄英高校A組メンツでご飯を食べた帰り際。店から出て真っ先に私の腕を捕らえた勝己は、答えないまま顔を逸らした。そうして視線の先、スマホを覗きながら集まって、きっと次の店を探しているだろう上鳴達を「おい」と呼ぶ。


「こいつ、頭数から抜け」


私の「えっ」と皆の「えっ」が重なった。夜の静寂を切り裂く舌打ち。「行くぞ」って無骨な手に連れられて、それでも背後を振り向き二次会組へ別れの挨拶が出来たのは、たぶん慣れ。なんてったって長い付き合い。こういう時、何を言っても無駄なことはとっくの昔に知っていて、広い背中を黙って追った。



着いた先は駐車場だった。問答無用で後部座席へ詰められて、あろうことか隣に乗り込んできた勝己の後ろで扉が閉まる。全窓スモーク仕様のいかつい黒塗りセダン。おそらく事務所の車だろう。思えば、そこらにパパラッチが潜んでいないとも限らない。私はともかく、勝己は人気の若手ヒーロー。浮いた話も聞かないし、スキャンダルはご法度なんだろう。それなら尚更、どうしてここに連れてきたのか。

勝己の薄い唇が小さく開く。ぶっきらぼうな声で紡がれた「結婚」って言葉に、一瞬呼吸が止まった。


「破談になったんだってな」
「……うん」


全くどこから漏れたのか。あれだけ耐えた苦笑が浮かぶ。そう。破談になった。ちょっと違うような気もするけれど、他に適切な表し方も見つからない。つい先日。ほんの三日前。私が私を不幸であると証する所以。


「敵だったの。花嫁を殺したかったんだって」


恋人が出来れば勝己への気持ちも薄らぐかなって、そもそも不誠実な心情のまま付き合った相手だった。明るく優しく、誰かさんとは大違い。愛してはいなかったけれど、そこそこ好きだった。結婚式場を一緒にまわり、楽しくなかったといえば嘘になる。まあウエディングドレスへの異常なこだわりを不審に感じ素性を調べあげる頃には、さっぱり冷めていたけれど。

別に傷は深くない。キス以上の関係はなく、バツがついたわけでもない。やっぱり忘れられなかった勝己の姿は、いつも脳裏にちらついていた。ちょっぴり悲しいくらいで済んで、結果的には良かったと思っている。もう、誰かが被害に遭うこともない。


「ったく、ンなクソに騙されてんじゃねーわカス」
「ごめん」
「くだらねえ男に尻尾振ってる暇あんなら、そろそろ本命に懐けや」
「……いないよ。そんなの」


浮かんだ動揺は宥めすかして、嘯いた。まるでらしくない虚勢。でも上手く言えたはずだった。私の春は、もう大半が喰い潰されてしまっていたから。なのに視線は刺さったまま。背凭れへ頬杖をついた勝己が、狭い車内で窮屈そうに脚を組む。


「いんだろ。目の前に」


固まる私に、息を吐く。


「だから、最初っから俺にしときゃあ良かったんだよ。てめえは」
「……、え?」


耳を疑った。願うあまりの幻聴かって、さっき宥めたばかりの動揺が鼓動をどくどく掻き立てる。口を突いてこぼれ出た「うそ、」も「いつから……?」も、全部鼻で笑われた。余裕たっぷり自信満々、人を小馬鹿にしたような横柄な態度は決して褒められたものじゃないのに、どうしてこうも目が離せないのか。心が離れてくれないのか。


「ガキん頃から知っとったわ」
「、っそれなら、」
「言ってくれりゃ良かったのに、ってか?」


先回りした鋭い瞳が細まって、顰めっ面へと変貌する。


「言えるかクソが。養う土台も整ってねえっつーのに……」


吐き捨てるような言い方だった。女と違って男はそれ相応の覚悟が必要なのだと、言外にそれくらい分かれと言われているような、そんな気がした。全くもって理不尽な言い分だ。でも、反論を考えられるだけの余力は最早ない。

鼓膜を叩く拍動が、湧き立つ熱を指の先まで循環させる。喉を伝ってせり上がり、鼻の奥から瞼にかけてじんわり覆う。


「御託はいい。俺にすんのかしねえんか。今ここで、てめえで選べ」


視界の縁が滲んでく。泣くな、泣くな。ただでさえ化粧直しもしていない。降水確率は0%、泣く予定なんて一切なくて今日は普通のマスカラだ。せっかく好きな人を心のままに選ぶことが許されている、まるで夢みたいな今この瞬間、黒い涙なんて流せない。

俯きがちに涙袋を軽く押すよう、指で拭う。空気が揺れてシートが沈み「なまえ」って、「素直んなれや」って、優しい声が降ってくる。決して強制的ではないのに、なんでかなあ。逃げ場がない。逃げるつもりも毛頭ないけど、聞かなくたって分かるくせして追い詰めるんだから、全くもって意地が悪い。

乙女心なんて知ったこっちゃないのだろうせっかちな指に目尻を拭われ、近づく鼻先。触れた吐息が奪われた。

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