怪物は眠るあなたの毒で




自分で自分の機嫌がとれなくなったのは、一体いつからだろう。昔はもっと簡単だった。だって幸せだって思えることが、日々のそこかしこに落ちていた。ちょっと高いコンビニスイーツを食べるとか、カラオケに行って好きなだけ大声で歌うとか、お気に入りの香水をつけるとか。そしたら疲労も憂鬱も八割程度はリセットされて、今日も頑張ろう、明日も生きよう、って起き上がれた。そりゃ尾を引く夜もあったけど、それでも、こんなに重く伸し掛かりはしなかった。


はあ。夜の職員室で独り、溜め息。

大人なのになあって自己嫌悪を抱えたまま、さっきから全然回ってくれない脳を叱る。最近なんにも上手くいかない。でもこうやって、いちいち自分の欠点を取り沙汰している時間こそ勿体ない。お願いだから頑張って。これやっちゃわないと帰れないんだよ。ちょっとダメ出しされたくらいで落ち込むなんてそんな暇、今の私には一秒だってないんだよ。

お先ですと帰っていく先生方の背中を見送り、画面へ齧り付くこと二時間半。刻一刻と時間は過ぎ行く。もう嫌ってほど修正した企画書を前に、止まった指を擦り合わせた。ちょっと冷えてきたなあ。近付く足音に顔を向ける。


「相澤くん」
「おう、頑張ってるな」


ダメダメだけど、って言葉は呑んだ。代わりに「お疲れ様」と苦笑する。持ち上がった彼の右手の缶コーヒーが、私のデスクへ着地した。珍しい。そっと手に取れば、悴む皮膚にじんわり馴染むあたたかさ。少し熱いくらいってことは。


「買ってきてくれたの?」
「ああ。微糖で良かったか?」
「うん。ありがと」
「ん」


ぶっきらぼうな労りが優しくって嬉しくて。なんだか開けるの、勿体ない。両手で包んで眺めていると、彼は隣の席へ腰を下ろした。

「演習のやつか」って声に頷く。そう。ヒーロー科と経営科に向けた演習企画書。もう来週末には全て整った状態であるべきなのに、まだ企画段階で燻ってる。いつもはこうじゃないのに。こうじゃなかったはずなのに。本当最近つくづくダメで嫌になる。でも残念ながら仕事は待ってくれやしない。どんなにしんどくても、子ども達に向き合いながら危険な現場で戦うことを余儀なくされる彼らに比べれば、たかだか残業数時間くらいどうってことない。そう思わなきゃ、やってられない。


「相澤くんはなんで戻って来たの? 忘れ物?」
「いや、お前が残ってるって聞いたもんでな」
「様子見か」
「そんなとこだ」
「心配性だなぁ。大丈夫だよ」


ただでさえ忙しい彼に、余計な心配はかけたくない。大人だし社会人だしって理性で押し込め、笑ってみせる。そしたら鼻で笑うみたいに小さく返してくれるのがお決まりだった。けれど今日は違うらしい。気のない三白眼に見つめられ、自然と下がる視線と口角。参ったなあ。誤魔化し切れない動揺に息を吐けば、大きな手がやんわり頭を撫でてくれた。


「今は“みょうじさん”じゃなくていいぞ、なまえ」
「……ここ職員室だよ」
「時間外だ」


に、と歯を覗かせる悪戯な笑い方は、随分久しぶりに見たかもしれない。学生以来――いや、今年の生徒はとても楽しませてくれているようだから、何度か目にしたかもしれない。それにしても、公私混同を防ぐため職場で名前は呼ばないこと、恋人らしい振る舞いはしないこと、って約束をまさか消太くんの方から破るだなんて。今の私は、そんなにひどい顔をしているのかな。

とうとう喉まで覆った自責の念。すっかりこびり付いて声帯まで固めてしまったそれを、じんわり染み入る低声がゆっくりふやかす。偉いよ、って。ちゃんと逃げずに頑張って、偉いよお前。


「お前は賢いし、全部上手くいく方が珍しいとか無理するなとか……そういうのをごちゃごちゃ言うのは野暮だって分かってる。どうせ休んでも休まらねえだろうし、俺だって助言出来るほどの人間じゃない」


そんなことないよ。消太くんは立派だよ。心の中で言い返す。長い前置きだと分かっていた。何かを伝えようとしてくれているのだ。あの口下手で不器用で奥手な消太くんが最大限傷付けないよう、私のために言葉を選んでくれている。遮るなんてそれこそ野暮。だから待つ。「ただ、まあ……」と一度閉じた唇が再び開く、その瞬間を。


「プロ兼任の俺がなんでお前の気持ちに応えたかは、良く考えてみてくれ」


二人っきりの時しか聞かない、あんまり静かで穏やかで自嘲混じりな声の色。躊躇いがちに私を映した両の眼には、けれど考えるまでもなく“支えてやりたい”って書いてあった。

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