いとおしさだけが残ればいい




急いで髪を乾かし終えた午後九時半。化粧水をはたいた後、新調したオードトワレをワンプッシュしてスマホ片手に部屋を出る。誰もいないエレベーターに乗り込んで、向かう先は彼の部屋。まるで待ち望んでいたかのよう。ノックをするなり顔を出した焦凍は静かに、けれどやわく微笑んだ。「ごめん、待ったよね」と眉を下げれば「待ってたけど待ってねえ」って、彼らしい言葉で招かれる。背中に触れた手のひらが、じんわり熱を滲ませた。

週一回。翌日休みの土曜の晩だけ一緒に寝ようって約束してから二ヶ月あまり。私のベッドじゃ狭いから、今日も今日とて電気を消して焦凍の布団で身を寄せ合う。あたたかい腕が伸びてきて、気遣う私を抱き寄せる。そうしていつもほど良い体温に包まれながらゆったり微睡み眠りにつく―――のだけれど、どうも今夜は違うらしい。私の腰を捕らえると、控えめながら焦凍の方から寄ってきた。めずらしい。布団の中へ少し下がり、首元―――丁度鎖骨と喉の間くらい―――に顔をうずめて大人しくなる。


「今日はそういう気分なの?」
「嫌か?」
「ううん。嬉しい」
「良かった」


深く大きく吸った酸素が吐き出され、夜の静寂に溶けてゆく。まさか甘えてくるなんて、びっくりしちゃって睡魔はどこかへ消し飛んだ。彼は良くも悪くもいろんなことに鈍感で、抑圧されてきた環境のせいか頼り方さえろくに知らない。たとえば朝、猫みたいに擦り寄ってきたことは何度かあっても、こうしてぴったりくっついて故意に私を求めるような素振りを見せるなんて一度もない。

なにかあったのかもしれない。そう勘繰りながら指通りのいい髪をさらさら梳く。なぞり下ろした先の耳輪をなんとはなしにさすってみれば、くすぐったかったのだろう。小さく身じろいだ鼻先が、素肌に擦れてこそばゆい。

胸元で、焦凍の声がやんわり揺蕩う。


「いい匂いだな」
「でしょ。新しくしたの」
「なまえっぽい」
「そう?」
「ああ……やさしい感じがする」


安心しきっているかのような、ひどく穏やかな声の色。とくん……とくん……と伝わる鼓動は一定で、微かに届く寝息みたいな呼吸の音が、私の不安をさらっていった。さっき否定しなかったとおり、本当にそういう気分なだけだろう。甘えたいときに甘えられるようになった。少なくとも私には。ただそれだけのことだろう。

頭の丸みへ手をそえる。指先を髪の下へさし入れるよう、あるいは頭皮をこするよう。ゆったりやんわり、くし、くし、と撫でてやる。不意に「なまえ」とぼやいた焦凍が「それ……好きだ……」って眠り声で言うものだから、いとおしくって笑っちゃう。せめて意識が沈むまで、このままこうして可愛がっていてあげよう。

おやすみなさい、良い夢を。
明日もあなたに、安らぎを。
ね、焦凍―――……。

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