こどもになれなかった




―――ああ、そういうことね。

まるで魚の小骨みたいに今まで喉に引っかかってきた無数の違和感を嚥下する。モニター越し。エンデヴァーの息子を名乗る敵が明かした啓悟の過去は、妙にストンと腑に落ちた。真偽のほどは分からない。正直どっちでもいい。うそでも本当でも。だってどうせ、私の想いはたったの少しも霞まない。


曜日も時間もばらばら。ただ風のにおいを引き連れて不意に訪ねてくる彼を、夏は暑く冬は寒い吹きっさらしのベランダで、毎日延々待てるくらいには好きだった。たとえばふらっと出かけた先で、もう何年も会っていない旧友をたまたま見かけたよう。雑踏の中、愛しいあの子を見付けたような『なまえさん!』って弾んだ声。『もう寝ちゃってるかと思ってました。今日は夜も遅いんでこのまま帰りますけど、顔、見れて良かったです。明日仕事ですよね? 雨らしいんで、お気をつけて』なんてあどけない笑顔が可愛らしい。普段大人びて見える彼は、私に微笑む時だけ年相応に幼くなる。琥珀色の眼差しはずいぶん優しくあたたかく、私の心を何度も何度も魅了する。今更霞むはずがない。今更揺らぎようもない。どれだけ隠しごとが多くても、私が見てきた彼がすべて。

ただ、こんな形で知りたくなかった、とは思う。キスを交わして肌を重ね、それでもおまえはなんにも知らない、あくまで彼の内側に入ることが許されなかった他人なのだと突き付けられているかのようで気に食わない。

間違っても惨めじゃない。悲しくない。ちょっと悔しくて拗ねたいくらい。だから本当は問い詰めてやろうと考えていた。言わなかったのはどうしてか。信用するに足りなかった、伝える必要がないと思った、私に軽蔑されることを恐れた、さあどれだ、って。いちから全部ゆっくりじんわり姑みたいに、ちくちくねちねち責めあげるつもりだった。けれど実際傷だらけの啓悟を前にして、そんなものはきれいに消えた。


「こんばんは、なまえさん」


なんて顔をするんだろう。

躊躇う啓悟の手を引いてソファへ招く。「コーヒーでいい?」と聞けばお礼が返ってきたけれど、あまりに弱々しくて動けなかった。無理に吊り上げられた口角は見るも無残に引き攣っていて、とてもじゃないけどコーヒーなんて淹れにいける空気じゃない。目を離した瞬間に、きっと独りで泣いてしまう。いつも飄々と振る舞っていてなんにも読ませてくれないくせに、今はありあり罪悪感が沁み出ている。早くどうにかしてあげないと、それこそ本当に彼の心が死んでしまう。

隣に座り、瘡蓋だらけの片手の甲をそうっと包む。いつも私と彼を隔てる手袋が今日はいなかった。


「なまえさん……?」
「ごめん。やっぱコーヒーは後にしよ」
「いいですけど、どうしたんですか。珍しいですね」


ふ、とこぼされた吐息がラグへ沈む。「なんて、俺のせいですよね……」と俯きがちに逸れた視線が、彼自身の片手によって隠される。黄金色の瞳を覆った無骨な指には真新しい火傷の痕。危険な現場から帰還したヒーローとしての勲章が窺えた。


「すみません。分かってます。会いにこない方が良かったって。けど俺、思った以上になまえさんのこと好きみたいで。……正直今、普通に接してくれてホッとしてます」


自嘲混じりに笑う声。もちろん言葉は嬉しいけれど、なんだろな。素直に喜べないだけじゃあなくて喉が詰まる。きゅ、と指が握られて、それがあんまり縋るようで胸が痛い。

震える肩が小さく見える。どうしていいか分からない。お疲れさまって抱き締めるのも、よく頑張ったねって慰め方も、たぶん違う。私はどうするべきだろう。どうしてあげるべきだろう。彼が言わんとしていることはなんだろう。会いにこない方が良かった、だなんて。そんなことないんだよ。会いにきてくれて嬉しいよ。ううん、たぶんこれも正しくない。私が戯れに用意していた叱責以上に、彼は彼を責めている。彼は彼を悪だと思い込んでいる。だったらもう、とりあえず考えることはやめてほしい。我慢しないで、心のままに泣いてほしい。子どもみたいに。赤子みたいに。


「啓悟」と名前を呼ぶ。覗き込むように身を乗り出せば、情けない顔が上げられた。そんなに苦しむくらいなら、いっそ全部吐き出しちゃっていいんだよ。


「啓悟、おかえり」
「……た、だいま、……――っ、」


うん、そうそう。それでいいんだよ。大丈夫。何があってもあなたに対する私の心は、たったの少しも揺らがない。

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