わたしの春を青くしたひと



さすがにもう“運命”なんてものに夢を見る歳じゃない。かぼちゃの馬車も話せる食器もここにはないし、白馬に乗った王子様もやってこない。悪い魔女もランプの魔人も存在しない。わかってる。おとぎ話だって。でも“運命みたい”って瞬間は、意外とたくさん、日々の隙間に潜んでいる。たとえば今、携帯を開いてすぐ切り替わった着信画面なんかがそう。

お気に入りのメロディと、見慣れた画面を色鮮やかに彩る名前。高鳴る鼓動をひと撫でし、耳へぴったりくっつける。もしもし。平常通りを努めたはずの四文字は、けれどすっかり弾んでしまっていたらしい。機械越し、携帯の向こうで吹き出したはじめは『出んの早えな』と笑った。なんとなく嬉しそうな声だった。


「丁度開いたとこだったから」
『じゃあびっくりさせちまったな』
「全然だよ。大丈夫」
『なら良かった。おまえ今家か?』
「うん。はじめは部活?」
『もう帰りだけどな』
「え、早くない?」
『四時から点検すんだと』
「あーそれなら仕方ないね。残念だけど」


本来なら、まだまだボールに触れ合っていられる時間帯での強制終了。いくら文句を垂れるほど子どもじゃないとはいえ、根っからのバレー好きであるはじめにとっては不服だろう。簡素な相槌に「お疲れさま」って微笑みかける。返ってきた『ありがとな』は、角がなくてやわらかい。お互い顔が見えずとも、声の色や僅かな音の振れ幅で、ほど良く通じ合える仲だった。

一分一秒少しでも長くはじめに浸っていられるよう、一言一句聞きこぼさぬよう『なあなまえ』と呼ばれた名前に目を閉じる。


『この後時間あるか?』
「うん。どれくらいかかりそう?」
『は……?』
「あれ。会いに来てくれるのかなって思ったんだけど、違った?」
『や、合ってっけど……すげえなおまえ』
「でしょ。はじめのことだもん。わかるよ」


うそ。ごめん。ちょっと見栄を張っちゃった。本当は豪語出来るほど全部お見通しなわけじゃない。ただ、はじめとの“運命みたい”が少しばかり多いだけ。さっきみたいに奇跡的なタイミングで電話がきたり、私が恋しくなった時に丁度インターホンが鳴ったことは少なくない。だから今回も、私の“会いたい”がはじめの気持ちと上手い具合に重なってるって思っただけ。

小さな笑い声がつい洩れて、伝染したのか彼も笑った。二十分くらい、と所要時間を耳にして「じゃあまた後でね」って終話する。すぐ会えるのに、なぜだか浮かんだ名残惜しさは膨らむ期待で塗り替えた。



さあ準備だ。化粧はたぶん間に合わないから、まず着替えを済ませよう。あんまり見た目に頓着しない人だし、まあ気に留めないかもしれないけれど、彼氏の前ではちょっとでいいから可愛くありたい。別に動くわけじゃなし、たまにはスカートでも履こうかな。そろそろ気温も暖かい。フレアかな。タイトかな。不思議だな。ただ会えるってだけなのに、こんなに心がふわふわする。

足早に袖を通し、鏡の前で確認する。結局ロングのフレアスカートにしたけれど、我ながら丈感ばっちりで良い感じ。時計を見遣ればあと十分くらいは時間があって、幸いアイメイクとリップだけなら間に合いそう。間違っても待たせてしまわないよう気を付けながら軽めにのせて、髪を梳かせばチャイムが鳴った。ほら、こんな時まで良いタイミング。運命みたい。

素足でぺたぺた駆けてって、ミュールを引っかけ扉を開ける。


「はじめ!」
「おう。……どっか行ってたのか?」


ぱちり。持ち上げた視界の中央。部活帰りのはじめは両手をポケットに突っ込んだまま、そう瞬いた。電話ももちろん好きだけど、やっぱり生のはじめがいいなあ。なんて吹っ飛びかけた思考を引き止め、なんでそんなこと聞くんだろって、咄嗟の返事が出来ないままに答えを探す。首を傾げた刹那、なんとも言えない表情で「いつもとちげーから、その……」と歯切れ悪く口ごもった彼の視線が、おずおず逸れた。

たぶん、変なことを聞いてしまった、と思ってる。墓穴を掘った、って。だって今の疑問は、私の身なりに気付いたことを自ら申告したようなもの。女の子に慣れているだろう及川と違い、はじめは普段そこそこ鈍い。前髪を切っても気付かないし、リップを塗っても“なんか色ついてんな”くらいの反応で、ヒールに対する印象なんて“歩きにくそう”一択だ。履いていると必ず心配してくれる。そんなはじめだからこそ、上手い誤魔化し方のひとつも浮かばないのだろう。

嬉しさと微笑ましさが入り混じる。私以外の異性を知らない、ありのままの等身大に好意ばかりが蕾をつけて、恋情ばかりが花ひらく。


「行ってないよ。はじめが来るから、ちょっとおめかししたの」
「、」


戻ってきた双眼が、猫みたいに丸まった。自分で言っておきながら、なんだかずいぶん恥ずかしい。こんなはずじゃなかったのに、おかしいな。でも冗談にはしたくない。ましてや撤回なんてもってのほかで、平常心を装いながら歩み寄る。玄関扉が背後で閉まった。


「来てくれてありがと」
「悪かったな。急に」
「ううん、暇だったし気にしないで」


念のため「何かあったわけじゃないよね?」と仰ぎ見る。仄かに赤い目元をゆるめ吐息混じりに笑ったはじめは、二つ返事で頷いた。「なんもねえから心配すんな」と、ポケットから出した片手を裾で拭う。そうして持ち上げた手のひらを、私の髪にやんわり添えた。彼特有の高い温度が滲みゆく。


「声聞きてえなって電話して」
「うん」
「そしたら、なまえの顔が見たくなった」


それだけだ、と鼓膜を撫でた低い声。ななめ上から真っ直ぐ注がれる眼差しと、瞳の奥で揺らぐ熱。全部が全部優しくて、愛おしげでいて大真面目。言葉がなくとも、皮膚の上からひしひし伝わる“私が好き”って、はじめの気持ちに胸が詰まる。

ガラスの靴もティアラも私は持っていない。それなのに、この心を容易く奪うたったひとりが無条件に愛してくれる。私のことを、私だけを、こんなに想ってくれている。ねえ、まるで私たち、最初から惹かれ合う運命だったみたいだね。


「……はじめ」
「ん?」


地面を踏んで、手を伸ばす。


「好きっ」
「ッ、――……!」


なかば飛びつくように抱き着けば、支えてくれたはじめの体が固まって、それからぶわっと沸き立った。吹きこぼれた嬉しさは、どうやらお互い抑えきれそうにないらしい。

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