透けるパンドラ




きっかけはなんだったかな。ちょっと覚えていない。たぶん些細なことだった。記憶にとどまらないくらい、なんでもないことだった。それでも気が付いたら視界の中にいて、いつの間にか手の届く範囲に位置することが自然になった。良くも悪くも嘘をつかない彼の隣は心地がいい。たぶん彼もそうだから、このつかず離れずな距離感に気をゆるしてくれている。とはいえ、もちろん古森くんには及ばない。潔癖のきらいがある彼に触れるなんて出来ないし、会話のラリーも続かない。でもやっぱり傍にいる。隣に立って二つか三つ言葉を交わす。それだけで私の世界は明度を上げる。







「好きです、佐久早先輩」


風に乗って聞こえた声に、踏み出しかけた足が止まった。可愛らしい声だった。緊張と含羞をふんわり孕む、女の子らしい謙虚な告白。しかもお相手は佐久早くん。まるで少女漫画みたい。こんな偶然、本当の本当にあるんだなあってぼんやり驚く。

どうしよう。この角を曲がった先の地学室へちょっと寄りたかっただけなんだけど、まさか告白現場を横切るわけには到底いかない。曲がるに曲がれなくってさあ大変。引き返そうかな、でもな、って静かに悩む。なんせさっきの休憩時間、命よりもそこそこ大事な携帯をあろうことか置き忘れてきてしまっていた。

仕方なく息を潜めて終わりを待つ。盗み聞きをしているようで気分はあんまり良くないけれど、でも、不思議なことにそれだけだ。なぜだか焦りは浮かばない。私の特別である佐久早くんが当事者だっていうのに本当に変。びっくりするくらい不安感も全然なくて、なんならむしろ知っている。佐久早くんが断ることを当然みたいに分かってる。

「悪いけど」と、くぐもった低声が鼓膜を抜けた。どうやら彼は、こんな時でもマスクをずらそうとしないらしい。


「そういうの、考えてない」


うん。だよね。やっぱりね。あなたはたとえどんな可愛子ちゃんが相手でも、きっぱりはっきり断るだろうなって思ってた。駄々をこねずにそのまま引いて、最後にお礼を付け足した礼儀正しい女の子が駆けてくる。ぱたぱたぱた。顔を伏せ、私の横を通り過ぎる。

小さな背中が見えなくなった頃、彼の声が私を呼んだ。「いつまでそこに立ってる気」と話を振られ、バレているならと顔を出す。黒目がちのアンニュイな瞳は相も変わらず無機質で、盗み聞きするつもりはなかったんだけどって謝る私をあっさりすんなり許してくれた。


「別に、みょうじがそんなことする奴だとは思ってない」
「私すごく信用あるんだね」
「……見てれば分かる」


斜め下方へ逸れた視線。恥ずかしいのか照れているのかなんとも判別しづらいけれど、 私の頬は勝手に緩む。だって、だってさ。少なくとも彼の自覚が芽生えるくらいには見てくれている。こんな喜ばしいことってない。

春の陽だまりみたいにあったかくって、遠足前夜の小学生みたいにそわそわする。くすぐったくてドキドキして、そのくせ妙に安心する。この感覚に一番似合う名前があるなら、それはきっと恋なんだろうなあって思う。私もさっきのあの子みたいに、佐久早くんがきっと好き。言えたらいいな。いつか古森くんより仲良くなれたら。ちょっと難しそうだけど、再来年の卒業式には間に合いたい。


「こういう告白ってよくされる?」
「そうでもない。なんで?」
「モテそうだから」
「どこが?」
「そりゃ、えっと……」


傍にいたいと思える理由をいくつか浮かべ、けれど、私が知っている佐久早くんを他の女の子たちが知っているかっていうとそうじゃないだろうことに気付く。それに、どうしても後ろ向きに考えてしまう彼のこと。背が高くてかっこいい、なんてありきたりな賞賛は、見た目だけかと呆れ混じりに一蹴されかねない。

「ないのかよ」と、はるか頭上に位置する眉間にシワが寄る。違うんだよ。あるんだよ。あるんだけどね?


「内緒にしとく」
「なんで」
「えっ、うーん……聞きたい? 褒め言葉しか出ないから、どうかなって感じなんだけど……」
「? みょうじはお世辞言わないだろ」
「うん」
「だから聞けるし、伝えてくれないと分からない」


お前が俺をどう思ってるか。

聞き間違いでもなんでもなく確かにそう言った佐久早くんは、気まずそうにマスクを指で引き上げた。瞬く私の視線から逃げるよう逸れた目元がほんのり赤く見えるのは、たぶん気のせいなんかじゃない。そりゃあ知ってたよ。佐久早くんも私の隣が心地よくって、全然嫌ではないんだろうなって思ってた。でもその先は想定外。まさかこんな、こんなことって、あるのかな。


「佐久早くん」
「……」
「私、これ言っちゃったら戻れないと思うんだけど、それでもいい?」


ん、と彼の声が降ってくる。マスクの内でぼそぼそこもる低音が、俺もたぶんそうなる、と。私の心を待っている。

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