やさしくない手と生きる



「おまえ最近化粧せえへんな」
「外出ないからね。在宅だし」
「一緒に住む前は俺とおるだけでもしとったやん」
「……言いたいことあるならハッキリ言ってくれていいよ」
「別になんてないけど」
「ほんと?」
「ほんま。ちょっと思ただけや」
「……そう」
「おん」


素っ気ない返事。昔だったら言い争いの喧嘩になった。でもお互い、良くも悪くももう大人。ソファで寝転ぶ侑に背を向け、洗濯カゴを持ち上げる。

侑なんてきらいだ。

そう思うのは、高校から換算してこれで云千回目。それでもきらいになり切れない、私の心がひしゃげてく。





日本代表に選ばれて、ただでさえ多いファンが倍増した。私よりきれいなおねえさんも、若くて可愛い学生さんもたくさんいて、みんな侑に会うためだけに朝から並んで身なりを整える。一等素敵に見えるよう、侑だけに気に入ってもらえるよう、あわよくば認知してもらえるよう、一生懸命自分を着飾る。そんな、逆にいえば“頑張らないと見てもらえない”子達みたいに、私も毎日気合いを入れて精一杯のお洒落をしろって言うんだろうか。長い年月を経て、やっとここに立てたのに。

もう必死にならなくたって、いつだって名前を呼んで手を繋いでキスが出来る。どこで愛想を振り撒いていようと、ファンの子達にいくら微笑みかけていようと、私が侑の帰る場所。やっとひと息つけた中、今は掃除や料理に気を配り、侑がより違和感なく過ごせる環境作りに励んでいる。見た目だけの女じゃなくて、私は次に進みたかった。もっといえば、もう見た目なんて関係なく私自身を好きでいてくれていると安心していた。でもさっきの言い方的に、どうもそうじゃないらしい。昔はあんなに日頃から頑張っていたのに、なんで今は違うんだ。そんな不満がしめやかに潜んでいた。きっと自分の持ちうる全てでスパイカーを支える献身的な彼にとって、私はさぞ惰性的に見えていることだろう。

全部が全部、完璧ならよかった。意識せずとも自然にこなせる天才だったら、こんなに傷付くことはなかった。頑張らなくても元からきれいでなんでも出来る女だったら、こんな風に休日の朝からあなたに素っ気ない返事をさせてしまうことも、きっと絶対なかったね。


「ねえ侑」
「ん?」
「もう嫌だって思ったら、そう言ってくれていいからね」


二人で選んだラグマットに腰を下ろす。洗濯物を手に取って、ひとつひとつ畳むと同時。変な形にひしゃげた心を平らにならして組み直す。頭ごなしに怒ったり、子どもみたいに拗ねる元気は残っていない。争い合わず、ただ静かに終わりを待つ。私の最善が否定されてしまうなら、それでいいと思えた。どうせきらいにはなれない。それなら全部、委ねてしまえ。

けれど侑は、そんな甘えを許さなかった。「なんやそれ」と顔を顰め「嫌やなんて一言も言うてへんやろ」と、早口の関西訛りが怒りと不満をあらわにする。


「なに勘違いしとんのか知らんけど、勝手に解釈して自己解決するんほんまにおまえの悪いとこやぞ。なんやねんその“全部俺に合わせます”みたいな言い方。ごっつ気ぃ悪いわ。俺が嫌や言うたら別れるんか。そんな気持ちで付きおうとんか。おまえさっき俺にハッキリ言え言うたけどもやな、そもそも物言わんのおまえの方やろが」
「……」


押し黙る。他に選択肢はない。いくらそこそこ触れ合っている方言とはいえ、親の転勤で中学卒業とともに関西へ移り住んだ身。舌を巻きながら捲し立てるような荒っぽさには未だ慣れず、思考以前に畏縮が先立つ。別に震えあがるほどじゃない。反論する気もそもそもないし、別段悔しくもない。ただ、なんだろう。ちょっと悲しい。私のこと、これっぽっちも分かってないんだなって。いや、男の人って元来そういう生き物かもしれないけど。他人なんだから、これが当然なのかもしれないけど。

だんまりを決め込む私と見つめ合う内、大きく息を吐いた侑は「すまん。荒なった」と静かにこぼし、緩慢な動作で立ち上がった。どこかへ行ってしまうのかと思ったけれど洗濯物を脇へ寄せ、私のど真ん前へあぐらを掻くにとどまった。そうして「ん」と差し出された大きな二つの手のひらは、私の手のひらを待っていた。

懐かしい。学生の頃、意地っ張りな私達が生み出した仲直りの合図。両手を繋ぐこと。

おそるおそる手を乗せる。侑の温度がじんわり馴染む。少しばかり皮が厚くてごつごつしている男の手は、けれどバレーボールを操るため、しっかりケアされていた。「気ぃつかわんと教えて欲しいんやけど」なんて、ずいぶん選んだだろう言葉に頷く。


「なまえが化粧せえへんなったんは、俺に気ぃなくなったとかどうでもようなったとか、そんなんとはまた別か?」
「うん、別」
「まだちゃんと好きってことでええな?」
「うん」


ほんなら一個提案なんやけど、と一呼吸。
絡められた侑の指に力がこもる。


「結婚せぇへんか?」
「、え……?」


予想の斜め上を突っ切った“提案”に瞠目する。なんだ、提案って。こんなのプロポーズと変わらない。てっきり約束事が増えるくらいに構えていたものだから、夢見心地というよりもなんだか拍子抜けに近い。

侑もひどく落ち着いている。真っ直ぐ私を映す瞳に緊張や照れの色はなく、触れている皮膚から伝わる脈拍だって一定速度。ゆっくりとした静かな瞬きが大人びて見える。まさか侑がそんなことを考えていただなんて、全然これっぽっちも気付けなかった。


「女っていろいろ考えるんやろ? 俺も察すん上手ないし、おまえもたぶん溜め込む性格は変わらん。あ、責めとうわけやないで。言い方きついかもしらんけど」
「大丈夫。分かってるよ。私のために、不安を減らしていこうってことだよね」
「そう。やし、折り合わんことあっても俺は、……俺は、自分と一緒がええなって……」
「ふふ、照れた」
「うっさいな……」


思わず笑ってしまいながら、睨むように刺さる視線を享受する。俯きがちに染まった目元が可愛らしくて愛おしい。

お互い無知で、頭の中もお腹の中も見えなくて、そのくせ何度もぶつかり合う元気も若さももうなくて。勝手に諦めて傷付く私と、不満を募らせるばかりの侑。絶対的に交わらなくて、たぶんこの先双子のようなテレパシーが生まれることも望めない。彼の口から発せられた“結婚”が良い例だ。私の不安はそこじゃあなくて、やっぱり少しズレている。

でも、それでいいんだね。そんな私でいいんだね。私がいいんだね、侑。


「で、どうなん。……結婚」


聞かなくたって分かるでしょって、声には出さずに苦笑する。全くもう。こんな時さえ分かってくれない。通じ合えない。それでも私も、あなたがいいよ。何度心がひしゃげても、何百何千きらいだって思っても、十年前からずっとずっとあなたがいいよ。
ね、侑。

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