ねえ、もう、



煙草を吸い始めたのは、たぶん硝子の影響だった。私の幼稚な質問に対する『美味しくはないよ』って彼女の答え通り、美味しくはない。甘いフレーバーなんて錯覚程度。お腹だってろくにふくれず、ただ肺を汚すだけ。いってしまえば自傷行為に近いと思う。愛情不足の子どもが爪を噛むのと似ている。こんな行為で、こんな煙で埋めてしまえる小さな穴が、私の中にはいくつかあった。

たとえば苛立ち。たとえば不満。たとえば寂しさ。たとえば哀悼。自分を大事にってむずかしい。だからせめて大事にされてみたかったのに、それも夢物語で終わりそう。


「お帰り〜」


ソファからひらひら振られた手に「ただいま」と返しながらカバンをおろす。悟が家にいることは分かっていた。玄関に靴があったから。あと昼間に『今日何時帰り?』って連絡もきた。とはいえさほど本気にしていなかった――なんせ悟は気分屋で、急な任務が入ることも少なくない――し、使えない上司のせいで定時よりも随分遅い帰りになってしまったけど。

上着を脱いで手を洗う。換気扇を強にして、取り出したのは煙草とライター。いそいそ寄ってきた白とも黒とも判別しがたい壁のような高身長が隣に並ぶ。「またそんなの吸ってんの?」なんて。そんなことより、今日の移り香はCHAMELかな。また随分と高級志向の女といたんだね。


「あー補助監督の子かな。仕事で一緒だったんだよ。今日は軽井沢まで行かされてさ。早めに終わったから、ついでにぶらついてきたんだよね」
「へえ。ご苦労さま」
「なまえこそ遅かったね。定時上がりって言ってなかった?」
「ちょっと長引いてね」
「そ。お疲れ」
「……悟はなんにも聞かないし疑わないね」
「何を?」
「いろいろ。わかんないならいいよ」


ゆっくり吸った煙を吐き出す。小洒落た香りを煙草の匂いが掻き消して、それがひどく優越的。でも幸せなんかじゃない。こんなくだらないことで?って自嘲と共に降って湧いた虚しさばかりが心を充たし、ほんと私ってばかみたい。

面倒くさがりの鬱陶しがり。おまけにデリカシーの欠片もない外見だけのこの男が、普通の女と遊ぶだなんてまずないだろうと理解している。元々女に興味もない。すぐ手に入るものに、悟は興味なんて示さない。それでも妬いてしまう。縋りたくなってしまう。もっと大事にして、って。こんなあっさりとした上辺だけの労いじゃなく『どっか行ってた?』とか『誰かと一緒だった?』とか、少しは気にしてほしかった。あわよくば疑ってほしかった。私が悟へ付着した名残に気付いてしまえるように、悟にも私を見てほしかった。

でもやっぱり夢物語。とても柔らかいように見せかけてしっかり尖った言葉の切っ先に、煙で埋まった穴ごとズンと射貫かれる。


「どうせなまえは俺だけでしょ? いろいろ」


目前に、アイスブルーの瞳が迫る。


「まあ俺も、なんだかんだオマエだけだけど」


気付けば煙草は奪われていて、嘘みたいな甘い言葉に苦笑した。心の底さえ見透かすような六眼があんまり綺麗でちかちか眩しい。割れたガラスのように乱反射して、照射された私は焦げて、そうして今日も―――穴が増える。

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