愛も血も呪い、ずっと覚えているから



わたしがあと少し大人だったら。わたしがあと少しお金持ちだったら。わたしがあと少し立派な家に住んでいて、あと少しグラマラスで度胸も気風もたっぷりな、男が離したくなくなるような良い女だったなら。そんな叶いもしないこうだったらいいな、を何度空想したかなんてわからない。





甚爾さんの背中を最後に見たのは半年ほど前。確かあの日は明け方から雨が降っていた。ふらりとやって来ては数日居座り、またふらりと姿を消す。まるで餌をもらいに来る時だけ可愛らしく甘えてみせる野良猫みたい。そんな彼は、いつもわたしが寝ている間にいなくなる。でもあの日は違った。わたしが起きた朝、おはようのキスの後。『なまえ』って名前を呼んで、初めて『ちょっと行ってくる』と言葉を置いて出て行った。妙な違和感はあった。コンビニでも行ったのかな、なんて無理やり嫌な予感を振り払いながら帰りを待った。甚爾さんの一切を知らないわたしには、待つことしか出来なかったから。明日には帰ってくる。明後日こそ帰ってくる。来週には、来月には――……。


雨があがって晴れ間が続く。そういえば傘を持っていかなかった甚爾さんは、いつまで経っても帰ってこない。彼にとっての“ちょっと”は、一体どれくらいをさすのだろう。三ヶ月を過ぎた頃、カレンダーを見るのをやめた。目を閉じれば蘇る。湿気に混じった彼のにおい。朝特有の冷え冷えとした空気をゆるめる僅かな体温。カサついた唇と相反する、艶を孕んだ低い声。ぽつぽつ、しとしと、ぱらぱら、サーサー。

雨音が、鼓膜の奥に棲んでいる。

部屋に残る彼の私物は衣服と歯ブラシ、電動シェーバーに靴くらい。生きるうえで必要だけれど、どこでも買える物ばかり。捨ておいても支障はない。もしかしたら、もう帰ってこないのかもしれない。なんでかな。わたしが彼より年下で、ダブルベッドも置けないような狭い部屋に住んでいて、魅力だってずいぶん薄い退屈な女だからかな。せめて何かひとつ、彼を夢中にさせるたったひとつがあれば良かった。容姿でも話術でも体でも財力でもなんでもいい。せめて何か、たったひとつ。……ああ、良くない。ないものねだりはよろしくない。自分を惨めにするだけだ。

地べたへ座り、ベッドへ凭れて三角座り。瞼をおろせば、雨の音。ぽつぽつ、しとしと、ぱらぱら、サーサー。





「……?」


いつの間に眠っていたのだろう。意識が浮いて開けた視界。ぼんやり滲む色彩を数度擦って区分けする。少しと要さずきれいな輪郭を映した頃、丁度鳴ったインターホンに重い腰を持ち上げた。どうせ宅配だろうって、モニターは見なかった。何か頼んだ覚えはないけれど、わたしの家を訪ねてくる人なんてそういない。再び鳴った呼出音に返事をしながらノブを下げる。下げて、押して。扉向こうの人影に、息が止まった。


「よぉ」
「……とうじ、さん」
「はっ、なんだその顔。幽霊でも見てるみてえだな」


痕が走る口端で軽く笑った甚爾さんはまるで悪びれる様子もなく「あー今回はちょっと長かったか?」なんて平然と玄関に入ってくる。固まるわたしの頭へ手を置き、靴を脱いではよしよし撫でて「なあオマエの手料理食いてえ」って、淡然と。わたしの気も知らないで。


「甚爾さん、」
「あ?」


耐えきれず、振り向いたその懐へ飛び込んでも彼は全然動じない。「そうかそうか。寂しかったか」って、からかうような口振りが憎らしい。どうせただの冗談で、わたしが本当に寂しがっていただなんて毛ほども思っていないのだろう。

サービスだと言わんばかりに易々抱き締めてくれた腕はどこか懐かしく、彼のにおいは外のにおいへと変わってしまっていたけれど、わたしの皮膚が覚えている体温はそのまんま。広い背中をきゅっと掴み、爪先立ちで枝豆色の瞳を見上げる。泣きはしない。ただでさえ良い女じゃないのだから、ここで泣いて面倒だって思われるのは嫌だった。ただキスをせがむくらいは許してほしい。寂しかったなんて言わないから。ご飯も作ってあげるから。だから、うんと優しい恋人みたいなキスがほしい。

甚爾さんの無骨な手が首裏へと差し入れられる。どうやらわたしの無声祈願は眼差しだけで伝わったらしい。ゆっくり近づく鼻先に、瞼をおろすとほぼ同時。優しく触れた唇は記憶通りカサついていた。


「……待たせて悪かった」


鼓膜のすぐ傍。なんともバツが悪そうな全くらしくない低声が、雨の音を掻き消した。

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