融解する時間のエトセトラ





気のせいだって思ってた。ううん、違う。思うようにしてた。素っ気ないとか冷たいとか、ああなんか避けられてるなとか。全部引っくるめて気のせいだって、平気なふりをしてた。そしたら話す機会が少なくなって、一緒に過ごす時間も言わずもがな減ってしまった。目が合わなくなりだしてから、いったいどれほど経ったのか。体感的には半年以上。実際は――……二週間くらいかな、たぶん。そう考えると大したこともないように思えるけれど、でも棘と話せない現実は地獄のよう。何かしちゃったのかなあ私。

真希ちゃんには「直接本人に聞きゃいいじゃねえか。お前ら付き合ってんだろ?」とスルメを齧りながら呆れた顔をされてしまい、パンダには「まあなんか理由があるんだと思うぞ。一回聞いてみな」ってよしよしされた。ちょっぴり泣いた。年長者として非常に情けないけれど、棘の言葉がだいたい分かる伏黒くんにもこっそり相談した。そしたら逆に驚かれた。どうやら私たちはよっぽどラブラブに見えていたらしい。「狗巻先輩がみょうじ先輩を嫌いになるってことは絶対ないと思います」なんて励まされた。後輩の前ではさすがに泣かなかったけど、部屋に帰って独りで泣いた。おかげで真っ赤に腫れてしまった目を冷やすため、今日は朝から医務室にいる。


イスに座って天を仰いで閉ざした瞼。上に乗っけた保冷剤のひんやり具合が気持ちいい。何かしちゃったかなあそうだよなあ、って自問自答してる内、また目の奥が熱くなってなんとか虚勢で塞き止める。吐いた息が震えても、これ以上は不甲斐なくってもう泣けない。

内へ内へ向かう意識を外へ外へと放出する。消毒液のにおい、風の音、木々のざわめき。窓が開いているからだろう。ふわりと風が舞い込む度、カーテンレールがカラカラ鳴く。不思議。視覚情報がなくなると、途端に大きく細かく聞こえる。

木造扉が静かに開いて軋む床。踏み入ってきた足音は、左隣でそっと止まった。聞き覚えのある音だった。風に乗って鼻腔を掠める、土埃と花の匂いも同様に。


「とげ?」
「…………しゃけ」


私を取り巻く世界の全てが、ぴたりと凪いだ。いろんな感情がぐるぐるごちゃごちゃ混ざり合い、脳内信号が点滅する。まるで金縛りのよう。爪先から指の先まで固まって、けれど幸い、首だけはかろうじて持ち上がった。保冷剤が落ちたけど気にしてなんかいられない。目が真っ赤だとか腫れているとか、気にしている場合じゃない。

やわらかな白銀が開けた視界でさらりと揺れる。近頃ずっと遠くから眺めるだけだった、明るい夜空を詰めたみたいな綺麗な瞳が伏せってく。


「なんで、棘がそんな顔するの」


もう一度話せる日が来たら、きっと私は泣いてしまうだろうと思ってた。なのに今、泣きそうなのは棘の方。眉を寄せ、見えない唇はきっと噛み締められている。たとえばグラスを割ってしまった子どもみたい。後悔していて、叱られることを恐れていながら名乗り出た、とても傷付いているような顔。

おそるおそる伸びてきた指が、頬へ触れる手前で止まる。一瞬震えた指先が、手の内側へと曲げられる。「いいよ」と呟けば彼の瞳が見開いた。「さわってよ」と微笑めば、泣きそうな瞳のまま私の片頬をやんわり覆う。棘の手のひらはあったかく、指の先へ向かうにつれて冷えていた。

すり、と目尻を撫でられて、ああ棘だ、って泣いてしまう。


「っ……ごめ、」


声も視界もだんだん滲み、耐えるために鼻をすすった。棘の前で泣くなんて、とても卑怯。だって彼は優しいから、きっと女の涙に弱い。こんなもの、彼の本音を遮るための材料でしかないと思った。私は棘の話が聞きたい。棘の心が全部欲しい。ねえ、棘。話そうよ。私ともっと、お話しよう。


「高菜、高菜」
「っ……?」


まるでなまえ、と呼ぶようだった。いつの間にか俯いていた顔を上げると棘はしゃがんで、スマホへ文字を打ち始めた。

最初の三文字は謝罪だった。『なまえは悪くない』。時折逡巡するように、あるいは躊躇うように止まりながらも連ねられていく言葉は懺悔のよう。私に対する秘めやかな愛情と、私と仲良しに見えているらしい伏黒くんへの嫉妬心や劣等感。こんな自分じゃ釣り合わない。でも別れたくない。そう思えば思うほど自分がひどく穢れた人間であるように感じられ、ますます顔向け出来なくなって、逃げて泣かせた。

最初と同じ『ごめん』で締め括られた文面が縮こまった指で差し出され、喉が詰まる。まさかこんなに想われていて、こんな不安にさせてしまっていただなんて、むしろ謝るのは私の方だ。ずっと傍にいたのに。ずっと隣で手を繋いでいたはずなのに。


「ごめんね棘。悩んでるのに、気付いてあげられなくて」
「しゃけ」
「私、棘が思ってるほど綺麗な人間じゃないし、棘が思ってるよりずっと、……ずっと棘が大好きだよ」


どうしたら伝わるかな。ひとつひとつ口にしてみればいいのかな。ここが好き、あれが好き、こんなところが愛おしい、って。そしたらもう、なんにも気にすることなく私の隣に居てくれるかな。

丸くなった瞳に微笑む。「ねえ聞いて」って、真っ白な両頬を包み込む。身を屈め、額をこつんと突き合わせ、私を射止める棘の全部を紡ぎ出す。優しいだとかかっこいいとか、言わなくても分かるでしょって形容詞から丁寧に。たとえば跳ねてる可愛い寝癖、キスをしたあと名残惜しげに下がる眉、時々しっかり男の子になる熱視線、朝起きた時の掠れ声。挙げ出せばキリがないたくさんの好きをノンストップで並べてく。みるみるうちに熱くなった棘の手が、私の口を押さえるまで。


「んん、まだあるんだけど」
「っ、おかか」
「ちゃんと好きって分かった?」
「しゃけ! す、すじこ、おかか……っ」


真っ赤な顔が離れていって、口元を隠している襟を更に少し引っ張り上げた。分かったからそれ以上言わないで。たぶんおにぎりの具三連発はそんな意味合いを持っていて、耳まで染まった茹でダコ棘のマイナス思考は煮沸消毒されたはず。頭を撫でれば「つ、つなまよ……」なんて、くぐもったアイラブユーが鼓膜を打った。

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