覚えたのは呼吸の仕方と愛し方



痛みは十人十色。同じような喜びはあっても似たような悲しみはきっとなくて、自分自身ですら理解しがたいものだと思っている。だからそんな面倒な感情を、世界で一番大切な人に与えたくなかった。

なかったん、だけどなあ。
まあ勝己が無事なら、それでいっか。


まるで全てがスローモーションのよう。乾いた破裂音とともに体が軋んで、息が詰まった。皮膚の下、大きく脈打つこれは血液か心臓か。ああ、随分嫌なところに当たったらしい。

染まりゆく地面に伏した私の名前を呼ぶ声が鼓膜を劈いて、大丈夫だって笑いたいのに笑えなくて、ねえ今仕事中なのに本名呼ばないでよって叱りたいのに声も出なくて。情けなくも霞む視界で最後に捉えた彼の瞳は、ひどく綺麗に滲んでいた。







右手が温かい。

浮上する意識の最中、深く息をする。肺が膨らんで、しぼむ。小さな痛み。ああ生きてるんだって理解が追い付いて、瞼をゆっくり押し上げる。あまりの眩しさに細めた視界。白い天井。白いカーテン。鼓膜を覆う静寂。


右を向けば、明るい色のつんつん頭がそこにいた。私の手を大きな両手で握ったまま、真っ白なシーツに伏せっている。きっと眠っているんだろう。辛い思いをさせてしまったに違いない。時間が許す限り、ずっとこうして手を握ってくれていたに違いない。この男は、そういう人だった。

愛されてるなあって嬉しくなる。親指を動かしてカサついた節をすりすり撫でていれば「ん"……」と唸った、愛しい声帯。ハッとしたように勢いよく跳ね起きて、大きく見開かれた瞳が私を捉える。半開きの唇が、動く。


「……なまえ」
「ごめんね、勝己。心配かけちゃって」
「……」
「勝己? どうし、」


ぽす。そんな可愛らしい効果音がつきそうなほど力無く、再びシーツへ伏せった彼に、言葉は引っ込んだ。

ぎゅ、と強く握られた手。握り返して気付いたのは、その指先がほんの少し震えていること。一瞬聞こえた吐息は弱々しく、鼻をすするくぐもった音が意味するものは、たとえ顔が見えなくてもすぐに分かった。


「泣いてるの? 勝己」
「……てねえ」
「ん?」
「ッだから、泣いてねえっつっとんだろ……」


勝己の涙声なんて、いつ以来だろう。

体が痛まないよう気を付けながら、ゆっくり上体を起こす。気付いた彼は慌てて顔を上げ、背中を支えてくれた。視線が交わって数秒。こぼれた涙が、勝己の頬を伝っていく。泣いてないなんて言ったくせに、もう。


「強がんないでよ。二人っきりなのに」
「べ、つに……強がってなんざ、っ」


不自然に途切れた声。きっと喉が引き攣ったのだろう。言葉に反して、次から次へと溢れていく涙は、どうやら留まることを知らないらしい。顔を顰め、きゅっと唇を結んだ勝己は苦し紛れに俯いた。

嗚咽を呑み込み、声を押し殺して、肩を震わせ。初めて見るそんな姿に、胸が締め付けられる。悔しさ、苛立ち、焦り、不安、悲しみ、痛み。私が目覚めるまでの間、どれだけ勝己が苦しんだか。何も聞かなくたって分かる。今こんなにも泣いているのは、私が生きているって安心が一気に押し寄せたからだってことも、同様に。


ああ。幸せだなあ。
本当に愛されてるなあ、私。



目の奥が、じわじわ熱を孕む。
視界が揺れて、だんだん滲んでいく。
涙が頬を滑り落ちる。


「有難う。ごめんね、勝己」
「ッカヤロ……謝んなカス……っ」


今だけはずっとずっと小さく見える肩を「もう大丈夫だよ」って引き寄せる。私の首元に顔を埋め、まるで掻き抱くように強く、けれど優しく抱き締められて初めて、自分の命の重みを知った。

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