鮮やかに酩酊



定時一分前。仕事を切り上げてコートを羽織る。スマホのロック画面には『19:00』の表示。開始時間丁度。乾杯には間に合わないけれど、仕方ない。乗り込んだ電車の中で化粧を直し、気休め程度に髪を梳く。

雄英高校を卒業して早五年。三駅先にある掘りごたつの居酒屋では、既に懐かしい顔ぶれが揃っていた。皆ずいぶんと大人びたものの、当時の面影はまだ残っているように思う。


「お、みょうじじゃん!お疲れー」
「お疲れ。ごめん遅くなって」
「気にすんな。今始まったとこ。そっち座れよ」


示された席に視線を移して、一瞬、呼吸が止まる。

覚えのあるすみれ色。
言葉を交わしたことは、そんなにない。私も彼も決してお喋りではなかったし、口数だって多くない。ただなんとなく、落ち着く人だった。すうっと肩の力が抜けるような、ほうっと一息つけるような。言葉はなくても、なんとなく。本当になんとなく落ち着く人。フィーリングが合うとでも言えばいいのか。とにかくちょっと疲れたなあって時に、気付けば傍にいる存在だった。彼にとっての私も、たぶんそうだった。


卒業してからは疎遠になって、ヒーロー事務所で働いているらしいとどこかで聞いた。てっきり普通科の同窓会には来ないと思っていただけに、どうしても嬉しさが滲む。

こちらに気付いた心操は「久しぶり、みょうじ」と、気だるげに片手を振った。


「来てたんだね」
「丁度時間が空いたから」
「そっか。プロおめでとう」
「有難う。何飲む?」


脱いだコートを後ろ手に置き、広げられたドリンクメニューへ視線を落とす。なるほど。さすがクラスの人気者が幹事を務めているだけあって、女子に嬉しいカクテルが豊富だ。

有難く「じゃあモスコで」と口にすれば、心操が頼んでくれた上に取り皿まで寄せてくれた。こんなサービス精神をどこで備えてきたんだ、なんて目を瞬かせたけれど、思えば彼は昔から気が遣える人だった。


変化らしい変化といえば、体格が一層ガッシリしたくらいだろうか。線は細いけれど、捲られた袖から覗く腕には筋が浮いていて、もうすっかり男の人。まあ、そりゃそうだ。お酒も飲めて煙草も吸える。おまけに立派なプロヒーロー。その手に救われている人が、きっと大勢いることだろう。

いいなあって思う。私も救ってくれないかな。毎日毎日書類に忙殺されては帰って寝るだけの日々から。なんてつまらない自嘲は喉で留め、唐揚げとともに飲み込んだ。今日は楽しい同窓会。せっかくの楽しい雰囲気を壊しちゃいけない。


「みょうじは就職組だったっけ」
「うん。ずっとOLやってるよ」
「だろうと思った。制服だもんな」
「定時ギリギリで着替えらんなくて……やっぱり目立つ?」
「目立ちはしないけど、何で? 似合ってるよ」
「そう、かな」
「ん」


控えめな笑い方。アルコールのせいか、そうでないのか。ほんのり赤らんだ目元が細まって、まるで恥ずかしがるように、ふいっと逸らされた。

たったそれだけ。深く話を聞いてくれたわけでも、慰めてもらったわけでもない。たったそれだけなのに、胸の中の蟠りが静かに降下して溶けていく。濾過された後に残ったのは、ひどく純粋で透明な心地よさ。すうっと肩の力が抜けたような、ほうっと一息つけたような。嫌なものが全部すとんっと着地したような、形容しがたい浮遊感。



ああ、なんだ。
私ずっと、この感覚が恋しかったのか。




それ以降、多くは話さなかった。「あれ食べる?」「ん。取って」「次何飲む?」「それ何飲んでるの?」「ハイボール」「じゃあ同じの」って、それくらい。わいわい盛り上がる皆を眺めて、当時に戻ったような気分に心が綻んで、美味しいお酒と料理で胃を満たして、久しぶりの心地よさに肩まで浸る。そうして時間が経つにつれ、離れることが惜しくなる。


「ねえ、心操」
「ん?」


今日を逃したら、もう会えないかもしれない。せめて連絡先くらい聞いておきたい。ああでも、もしこのまま流せるなら、いっそ、いっそ――……。


期待を込めて見上げた顔は、けれどちっとも酔ってなさそうだった。ダメかなあなんて思いながら、膝を指で小突く。一瞬瞳を丸めて素直に屈んでくれた彼へ、そっと耳打ち。

"一緒に抜けない?"

乗ってくれる可能性なんて半分もなかった。それでも良かった。酔ってるだろって軽く流されたって、かもねって冗談にしてしまえる。じゃあ酔ってない時に言いたいからって、連絡先も聞きやすい。どっちに転んでも、別に良かった。私も狡い大人になったものだ。


上体を戻して数秒。こちらを見下ろしたまま黙っていた心操が、ふ、と笑う。


「酔ってる?」
「……かもね」


やっぱりダメかあって身を引いて、グラスの残りを煽る。刹那、さっき私がそうしたように膝を小突かれた。テーブルの下で最大限の明るさを以て示されたスマホの画面には、諦めかけの期待をすくい上げる『外で待ってる』って六文字。

私の口から音がこぼれるよりも早く上着を羽織った心操は「じゃあ俺そろそろ。まだ見回りあるから」と、上手い具合に抜けて行った。いつの間にか、ずいぶんと器用になったらしい。つい笑ってしまいそうな表情筋を引き締め、お手洗いに行く振りで後を追う。数分遅れて外へ出たけれど、彼は文字通り、ちゃんと待っていてくれた。


歩み寄りながらコートに袖を通し「行こっか」と発せられた硬い声に頷く。さっきはあんなに余裕だったのに、今更緊張してきているのだろうか。それとも、夜風に当たって酔いが醒めたのだろうか。するりと繋いだ手が跳ねて、絡めた指も微かに震えた。

行き先は、お互い口にしない。もう順序立てて春を育んでいくような歳ではないと知っていたから。そんなことさえ、なんとなく分かり合える。


「良かったの?」
「何が?」
「私、結構狡いよ。自分で言うのもなんだけど」
「ああ……まあ、俺も似たようなモンだよ」


言いづらそうに首裏を掻きながら、降ってきた視線。何だろう。似たようなって、どういうことだろう。

素直についていきながらただ見上げ続けていれば、やがて観念したように立ち止まった。「引かないで欲しいんだけど」なんて保守的な前置きが鼓膜をくすぐって、繋いだ手が握り直される。


「……みょうじが酔ってても、まあ既成事実作れば良いかって、ちょっと思ってる」


ごめん、と苦笑する淡いすみれ色の向こう側。派手なネオンが、ひと際強く輝いて見えた。

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