春を呼ぶ



三年組が慌ただしくなるこの時期。ふと思い出すことがある。あの日は桜が満開で、風に巻き上げられた花びらが、生徒の肩や地面を淡く染め上げていた。


『好きです、先生』


凛とした真っ直ぐな声。迷いなど微塵も感じさせないそれは、今でも鮮明に、鼓膜の奥で息をしている。瞼の裏には、心底満足気なダークブラウンの瞳。

驚く俺の返事も聞かず、ただ微笑んで去っていった彼女は、今まで面倒を見てきた中で一番優秀で男女ともに人気のある生徒だった。せめて礼くらい言ってやれれば良かったと浮かんだ後悔は、あの日からずっと心の中に留まっている。柄じゃない。全くもって非合理的な感情だと、そう苦笑した瞬間。「失礼します」と職員室を横断した真っ直ぐな声に、息を呑んだ。




「全然変わってませんね、先生」
「お前は少し変わったな」
「ええ、本当?」


あの頃よりも大人びた顔で、みょうじは笑った。小銭を渡してやれば嬉しそうに礼を述べ「何にしようかなー」なんて自販機を眺める。在学中、いつも飲んでいたココアはあいにく品切れらしい。悩んだ末「先生は何飲むんですか?」と振り向いた彼女に適当なコーヒーを指せば、素直にボタンを押した。

差し出された一缶を受け取り、壁に背を預ける。

聞けば、今日は卒業生のプロとして、ヒーローを夢見る後輩達との交流会に呼ばれたらしかった。まあ質疑応答のようなものだろう。ご苦労なことだ。


「もう帰るのか?」
「んー……ぐるっと学校見て回って、懐かしさに浸ってから帰ります」
「そうか。気を付けてな」
「はい」


一緒に回るかって言葉は呑み込んだ。似たような日々の繰り返しである俺と違って、みょうじは目まぐるしく移り変わる世界にいる。何年も前の、ましてや学生時代に抱いた気の迷いなど、もう忘れているかもしれない。良い男の一人や二人、きっと容易く見つかる。返事が出来たら、なんて後悔を拭うためのエゴを今更押し付けるのは良くないと分かっていた。


プルタブを開け、コーヒーを流し込む。舌の上へ残ったほろ苦さ。丁度いい甘み。

ふうっと一息つけば、視界の端にあった頭が寄せられた。腕にかかる控えめな重量は猫の子ほど。「どうした」と視線を落とした先で、ダークブラウンの瞳が細まる。


「好きです」
「……」
「先生のこと、ずっと」


凛とした真っ直ぐな声。桜色の唇が、やけにゆっくりと動いて見えた。

驚きと嬉しさと自制心と、あとは何だ。良く分からん。とにかく感じたことのないようなものが渦を巻いてせり上がり、胸いっぱいに膨らんでいく。思わず落としそうになった缶コーヒーを慌てて掴むと、華奢な指がそっと絡められた。今度は逃げないとでも言うように、今度こそ逃がさないと示すように。


「付き合ってください」


先生ではなく「相澤さん」と俺を呼ぶみょうじに返す言葉など、あの日からずっと、決まっていた。

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