春を知るすこし手前



リカバリーガールが出張に行って、私が一人で羽を伸ばしている時。決まって保健室にやって来る生徒がいる。

ヒーロー科一年A組爆豪勝己。八木さんの個性の秘密を知っている私が珍しいのか、それとも危険視して見張っているつもりなのか。真意はわからない。彼の仏頂面から読み取れるのは、短気なんだなあってことくらい。最初こそ個性を受け継いだ緑谷くんを心配しているんだろうと思っていたけれど、言葉を交わす内に、どうやら違うらしいって気付いた。


少々雑な扉の開閉音に、回転イスをくるり。


「また遊びに来たのーって言おうとしたんだけど、今日は怪我してんね」
「うっせえ。見んな」
「えー。見ないと治せないんだけど」
「こんくれえ舐めときゃ治んだよ」


軽く鼻を鳴らした彼は、いつものように丸イスへ座った。「じゃあ遊びに来たの?」ってイスごと近寄り、真正面から綺麗な顔を覗き込む。頬を横断する赤い線は四センチくらいかな。猫にでも引っかかれたような浅い切り傷。手を伸ばせば、一瞬にして顔が顰められた。


「近え」
「ちょっと動かないで。これどうしたの?」
「関係ねえだろ。触んなカス」


嫌がるように首を傾けながら手を払われる。余計な暴言とは裏腹に、力は殆ど入っていなかった。ちゃんと力加減出来るんだね、なんて言ったら怒るだろうか。怒るだろうなあ。

とりあえず何も言わないまま、訝し気な視線を笑って流す。


「で、何しに来たの?」
「……」
「もしかして、私に会いたかった?」
「っ、違えわ自意識過剰女」
「冗談だってば。そんな否定しなくてもいいじゃない」


もう、失礼しちゃう。やっぱり口が悪い。この様子じゃ、いくら話しかけたところで無駄だろう。

来室理由は早々に諦めて、右手の棚からピンセットを取る。摘んだ脱脂綿に消毒液を含ませ「はい、こっち向いて」って赤い瞳を凝視し続ければ、居心地が悪くなったのだろう。眉間のシワが一層深まって、やがてこちらを向いた。


手当てをされている間の彼は大人しかった。まるで借りてきた猫のよう。時折口端がぴくりと引き攣るくらいで、痛いとも沁みるとも言わない。こういう時、ちゃんとヒーローを目指す男の子なんだなあって感心する。

目立たないよう私の個性で傷口に蓋をすれば、今まで落ちていた視線がようやく上げられた。珍しくお礼でも言ってくれるのか。そんな淡い期待を見事に裏切って尋ねられたのは、まさかの名前。


「名前?」
「おう」
「え、私の?」
「てめえ以外に誰がいんだ」
「いや、なんか意外だったから……なまえと申します」


なんとなく。本当になんとなくなんだけれど、下の名前を名乗る時に恥ずかしくなるのは私だけだろうか。

「以後お見知りおきを」って照れ隠しで冗談めかせば、耳障りの良い低音に「なまえな」と復唱された。落ち着いている時の爆豪くんは、なかなか良い声をしている。ちょっとだけ。本当にちょっとだけ"もう一回呼んでほしい"なんて、つい思ってしまった。

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