十二分の酸素で窒息
雨の音がする。小さな雨粒が、幾重にも重なって降り注ぐ音。彼と出会ったのも、こんな日だった。こんな霧雨が鼓膜も視界も遮る、ひどく静かな夜。
『風邪引きますよ』
『……』
フードをかぶった濡れ鼠。言い表すならそんな感じの人影へ傘を傾けたのは、ちょっとした気まぐれだった。珍しく残業で遅くなったのも、普段は危険視している路地裏を近道だからと通ったのも、見ず知らずの男に声を掛けるほど思考が鈍っていたのも、彼が路地裏で雨に打たれていたのも、単なる偶然。
いろんな因子が重なった空間に、雨の音がさあっと響く。
顔は見えない。ほんの少しこちらを見上げたフードから覗いたのは、変色した皮膚。およそ普通ではない。けれど、恐怖や後悔はなかった。
きっとあらゆる感覚が麻痺していたのだろう。それくらい疲れていたと記憶している。まあ彼が隣にいる今となっては、もうどうでもいいこと。それでも言うなれば、あの時怖がらなくて良かった。
じっとしたまま何も言わない姿に『要らなかったら捨てて』と、一方的に傘を置いて帰った一週間後。律儀にも傘を返しに現れた荼毘と、こうしてベッドの中で体温を分け合うようになって、恋をして、臆病になって、艶やかな愛情をなみなみ注いでもらえて、好きを交わして。これ以上の幸せは、きっとない。
「降ってきたな」
雨の音がする。ガラスを隔てた向こう側。「ね」って返事をしながら遮光カーテンを捲れば、あの日と同じ雨雲が月明かりを遮っていた。
不意に腰をなぞられ、肌が震える。
振り向く間もなく、やんわり引き寄せられた腕の中。「なまえ」と落とされたキスも規則的な心音も、至って穏やかに優しく響く。薄い皮膚を通して伝わる体温が子どもっぽく感じるのは、たぶん眠いから。無理もない。零時はとうに過ぎている。
「なに。寒い?」
「いや、それはお前であったまるからいい」
「贅沢な湯たんぽだね」
「自分で言うのかよ」
小さな吹出し音とともに緩まった口元。つられて微笑めば、愛しさを孕んだ眼差しがゆったり和らいだ。考えていることは相変わらず分からないけれど、それでも随分、優しい顔をするようになった。そんな変化がぽつぽつ咲いている幸せの中、愛する人と二人で息をしていられる喜びを噛み締める。
ざらついた感触も、焦げた匂いも、なめらかな低音も、骨張った指も、大きな手のひらも何もかも。今はもう、全部が全部私のもの。
伸ばした指の背で目尻を撫でる。小さく擦り寄ってくる様は、昔と変わらず猫のよう。
「好き」
「俺も。おやすみ、なまえ」
「おやすみなさい、荼毘」
じわじわ燻されていく心が愛おしい。
開いたままのカーテンは、荼毘の長い腕が閉めた。