温度で教えて



すれ違いざま。くん、と袖を引かれて立ち止まる。


「消太くん」
「職場ではそう呼ぶなと言っただろ」
「ごめん……気を付ける」
「で、何か用か?」
「ぁ、えっと、一緒にお昼どうかなって」
「悪い。午後の準備がある」
「そっか……。頑張ってね」


無理やり笑ったなまえの背中が見えなくなって少し。やってしまったと、自責の念が浮上した。


彼女の前では、どうも上手く言葉を探せない。いつも通りが難しく、意図せずともキツい言い方になってしまう。思えば、好きだと意識した時からそうだった。もう片思いではないと言うのに、緊張が取れていないのか何なのか。さすがに、話し方が分からないなんて歳でもない。

後で謝ろう。

溜息をひとつこぼし、飲料ゼリーを飲みながら切り替える。何があっても公私混同はしない。付き合った当初にそう交わした約束を、俺が破るわけにはいかなかった。



幸いなまえの顔がちらつくこともなく、いつも通り無事に授業を終えて職員室へ戻る途中。鼓膜を掠めた品の良い笑い声に足を止める。数メートル先には案の定なまえがいて、向かい側には知らない男が立っていた。短髪で背は平均くらい。作業員か事務員か。

そもそも彼女は社交的で、いろんな人から好かれる女性だ。聡明で明るく、笑うと右頬にだけ笑窪が出来る。気配りだって自然に行えて、物分かりも悪くない。教師だけでなく他の職員と仲が良いのも、十二分に頷ける。頷けはするが、何だろうな。この感覚は。


「まさかの最終回でしたね」
「やーほんと。僕もビックリしました」


聞こえてくるのはドラマや俳優陣のことばかりで、特別親しい間柄でもないらしいと分かる。それでも二人が笑う度、なまえの頬が綻ぶ度、胸の底に湧いた黒いモヤが膨れていく。止まっていたはずの足が勝手に進んで、無意識に掴んだのは、今にも彼女の肩へ触れそうだった男の手。


「相澤さん……?」
「すみません、ちょっとお借りします」
「えっ……!?」


驚いているのだろう大きな瞳を一瞥し、なまえの小さな手を引く。角を曲がって左側の準備室へ入り、後ろ手に扉を閉めたところで『またやってしまった』と溜息を吐いたのは言うまでもない。黒いモヤはいつの間にか引っ込んでいて、ただ視界に映るのは不安気な表情。何か言わなければと逡巡し、余計な言葉を見つける前にと謝罪をこぼす。


「話してたとこ悪い」
「そんなの全然良いよ。何かあったの?」
「いや、まあ……」


果たして強引に連れ込んでおいて、用がないと言っても良いものか。泳ぐ視線をそのままに、言い訳を探す。

まとめて欲しい書類がある。手伝って欲しい仕事がある。探して欲しい資料がある。けれどそんなもの、わざわざ楽しそうにしていた彼女を引っ張ってくるほどの理由にはならない。何か他にそれっぽいものが思い付ければ良いが、あいにくこういうことは昔から不得手だった。


俺の手をきゅっと握って、ただひたすらに返事を待ってくれている綺麗な瞳を見下ろす。何もないと言えば、安心してくれるだろうか。素直に妬いたと言えば、笑ってくれるだろうか。


「……悪い。大した用じゃない」
「本当に?」
「ああ」
「良かったー……」


ふんわり微笑んだなまえが、胸元に埋まる。一瞬どうすれば良いのか分からなくなって、背中へ回った華奢な腕に驚いたのも束の間。「お疲れさま」と抱き締められれば、なんだか全部どうでも良くなった。いつも素っ気ない態度ばかりの俺を、それでもこうして好きでいてくれるなまえが、たまらなく愛おしかった。

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