スーパーで買い物をしてから帰ると、鍵が開いていた。まさか泥棒、なんて過ぎった不安は、玄関で揃えてあった男物の靴に綺麗さっぱり拭われる。いつも残業ばかりで遅い彼が、今日は珍しく帰っているらしい。つい顔に出てしまいそうな嬉しさを押し留め、けれど些か早足で、リビングへ続く扉を開ける。

ソファで寛いでいた相澤くんは「お帰り」と振り向いて、立ち上がった。


「ただいま。今日は早かったんだね」
「ああ。たまには早く帰ってやれって追い出された」
「香山さんに?」
「……何で分かった」
「相澤くんが素直に言うこと聞くなんてあの人くらいだもの」
「なるほど」


私の両手から荷物をさらった彼は、口端で笑いながら冷蔵庫を開いた。食材や飲み物をしまってくれている姿を横目に手を洗い、昨日のカレーを温める。籍を入れて半年。付き合う前からの優しさが薄れる気配は微塵もない。あーあ。早く帰ってくることが分かっていたなら、もう少し腕によりをかけたんだけどなあ。こればっかりは仕方ない。

お皿を出してくれた相澤くんにお礼を言って、サラダを盛り付ける。二人で食卓につくなんて、ほんと何日ぶりか。


「教師業は順調?」
「まあ、そうだな」
「良かった。何かあったら言ってね。相澤くん溜め込みがちだから」
「心配には及ばんよ。てかお前、そろそろ名前で呼んだらどうだ」
「え、?」
「相澤くん相澤くんって、お前ももう相澤だろ?」


レタスをわっていた箸が止まる。かち合った瞳は、何食わぬ顔のまま伏せられた。彼の口へカレーが運ばれていく。もぐもぐ咀嚼しながら再び戻ってきた視線。気のない三白眼に平然と見つめられ、顔に熱が集まる。全然、そんなの、気にしたこともなかった。


付き合っている頃は周りに関係が露呈しないよう、お互いわざと名字で呼び合っていた。それがいつの間にか定着して、それが私にとっての自然で。でも思い返せば、丁度婚姻届にサインをした辺りから、彼は私のことを名前で呼ぶようになっていた気がする。もしかして待っていたのか。私が気付いて、あるいはつられて名前を呼ぶことを。相澤なまえである自覚が芽生える瞬間を。

いやまあ、自覚していなかったわけじゃないけど。単に感覚が麻痺しているだけだけど、何だろうなこの感じ。いざ呼ぶってなると、めちゃくちゃ恥ずかしい。顔だけじゃなくって、全身が熱い。


思わず俯き、レタスわり作業を再開する。

ドレッシングを絡めながらこっちは必死で返事を探しているって言うのに、全く意地悪な人。まるで催促するように「なまえ」と呼ばれては、顔を上げないわけにいかなかった。

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