もう、どれが本当の啓悟なのか。


「あー……見てました?」


困ったように笑う彼は確かに私が知っている彼なのに、まるで得体の知れないお化けと対峙しているよう。「尾行も上手なんですね」なんて軽口が軽口に聞こえない。飄々としたいつもの笑顔が仮面のように感じられて、初めて怖いと思う。伸ばされた手から、一歩後退る。



草木も眠る夜の真っ只中。

時折ベッドを抜け出しては触れるだけのキスを残して出ていく啓悟が気になって、今日こそはって、珍しく徒歩で進む翼の生えた背中をこっそり尾けてきた。私だってアングラ界隈で生きるプロ。例えホークスと言えど、気を抜かない限りバレはしない。

仕事か、はたまた女か。正直そんなものはどっちでも良くて、ただ知っておきたかった。でもまさか敵連合と会っているだなんて、誰が想像出来ただろう。見間違えるわけもない。長いコート。黒い髪。変色した皮膚を繋ぎ合わせた異様な男。会話は聞こえなかったけれど、決して脅されているようには見えなかった。



「逃げないで下さいよ」


どこか自嘲を湛え、やっぱり困ったように笑った啓悟の手がだらりとおろされる。そうして両腕を広げたかと思うと「ほら、何もしませんって」と肩を竦めた。

言葉は出なかった。何を言えば良いのか、どう答えれば良いのか分からなかった。じわじわ皮膚を覆う薄気味悪い感覚が嫌で、つい数時間前まで私を抱いていた優しい腕がとんだ偽物のように思えて、好きなのに、怖い。

そもそも啓悟は、自分のことを話したがらない傾向にあった。私のことは好きな食べ物から幼稚園時代のあだ名まで何でも知りたがるくせに、仕事や過去のことを聞くと決まってはぐらかすのだ。また今度話しますよって、困ったように笑いながら。


「時期が来たらちゃんと言います」
「……そうやっていつも、私が知りたいことは何も話してくれないままだね」
「すみません。でも、今は信じて欲しいんです」
「じゃあ信じるから、信じられるだけのあなたを教えて」


思えば名前だけだった。外で呼ばないことを条件に、唯一教えてくれたのは。それ以外、彼を表すものも彼を形成してきたものも何も知らない。こういう人だから嘘をつかないとか、好きでもない女を抱ける人じゃないとか。そんなことを言い切れるだけの材料が、何一つとして私の中に存在しない。


短く息を吐いた啓悟は「ぎゅーってしても良いですか」と言った。ゴーグルがずらされ、あらわになった瞳を見つめる。

一秒、五秒、十秒。瞬きを一回。それでも逃げようとしない視線に、恐怖心が和らぐ。「良いよ」って返事と共に歩み寄って、普段そうするように彼の胸元へ額を当てれば、言葉通りぎゅーっと抱き締められた。


「言い触らされたら困るんで、普通なら今殺してます」
「まあ、生かしておくメリットはないね」
「でしょ。相変わらず冷静ですね」
「動揺しまくってるよ」
「えー」


降ってきた空笑い。瞼を閉じて探した彼の心音は、ベッドの中で聞くそれと同じで。この場に不似合いな恋情が、ふつり、ふつり。

信じたいんだよ。本当は私も。貴方以上に、貴方のことを。全然冷静なんかじゃない。だってちょっと抱き締められただけで、こんなにも愛しさが湧き立つ。傍にいたいと思えてしまう。


「真面目な話、なまえさんだから殺せないんです。俺」
「うん」
「そんくらいほんと好きなんで、勘弁して下さい」


縋るような、ひょっとしたら泣きそうな声は、少しだけ震えていた。到底嘘をついているようには聞こえなかった。触れることで安心感を得ようとする腕も、絆すような体温も確かに知っている。私が愛した、たった一人の男だった。

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