揺れた視界に眉が寄った。手近な机に手をついて、ずるずるしゃがみ込む。何てことはない。ただの眩暈。目を閉じて俯いていれば自然と治まる。

「大丈夫?」って梅雨ちゃんの声に「大丈夫。先行ってて」と片手を振る。「そんなわけにいかないわ」って優しく背中をさすってくれるあたり、さすがお姉ちゃん。可愛くてしっかり者で頼り甲斐がある。それに比べて、私は――…。


情けないなあ。ほんと情けない。

どれだけ追いかけても、皆はいつも先にいる。いつまで経っても弱いまま。こんなんじゃきっと、好きだと言ってくれた勝己にだって飽きられてしまう。愛想を尽かされてしまう。だから人一倍努力しているのに、どうも体がついてこない。鍛え方が足りないのか、まだまだ頑張らなくちゃいけないのか。

なんだかなあ。三半規管なんてどう鍛えろって言うんだ。つくづく私の世界に神様はいない。ヒーロー向きの個性だけを与えて、センスも才能もくれないままどこかへ行ってしまった。せめてもう少しくらい何か欲しかった。そう思うのは欲張りだろうか。傲慢だろうか。贅沢だろうか。


ぐるぐる回る脳内で、膜一枚隔てたようなぼんやりした声の輪郭を捉える。


「おい、退け」
「待って爆豪ちゃん、今、」
「うるせえ。わぁっとるわ」


耳触りのいい舌打ち。空気が揺れて、衣擦れの音。正面へしゃがんだ気配。こめかみを伝った無骨な指。存外優しく頬を覆う手。どれもこれも、全部知っている。勝己だ。

このまま触れていて欲しいと感じさせる体温を保有する人。愛しい人。ずっと傍にいたい人。離したくない人。いっそ今この瞬間が永遠に続けば、とか。あーあ。ダメな奴だなあ私って。ただでさえ置いてきぼりなのに、前進ではなく停滞を望むだなんてヒーローの卵失格だ。ここで立ち止まったらもうどこにも行けなくなってしまうのに、勝己の隣に知らない誰かがいる未来の可能性をただ否定したくて仕方がない。


「なまえ、どっか痛ぇんか」
「ううん。眩暈だから大丈夫」
「痩せ我慢すんな」


私にとって馴染みのある落ち着いたその声は、陳腐な虚勢などお見通しだと言わんばかりに真っ直ぐ届いた。

途端、伸縮した心臓が痛みを帯びる。強くならなくちゃ、捨てられてしまう。そんな、いつからか傍に寄り添っていた焦燥と恐怖心がふつふつ煮えて、けれど、さっきから酸素と共に舞い込んでくる勝己の匂いが根底を支えてくれた。平衡感覚が戻ってきて、余計なことばかり浮かぶ脳内がクリアになっていって、確かに膨れ上がる熱に抗えなくなって、心が揺れて、惑って。


「ごめん。ほんと、もう大丈夫」
「治まったんか」
「うん」


自制心を働かせ、つい伸びてしまいそうな手をぎゅっと握る。切り忘れた爪が手のひらにくい込む。痛い。内側も外側も全部痛い。でもしゃんとしなくちゃ。前を向かなくちゃ。彼はきっと、弱い人間に興味はない。

顔を上げる。

もう一度ごめんねって言うはずだった。大丈夫だよって笑うはずだった。イメージは出来ていた。なのに、存外近くにいた瞳があんまり綺麗で静かなものだから、何も包み隠せやしない。


「謝るくれえなら、端から心配させんな」
「……して、くれたの」
「あ?」
「こんな私のこと、心配してくれたの?」


瞠目した勝己が、ハッと笑う。


「クソなまえのくせして、俺の女貶してんじゃねーわ」


数瞬言葉を失った間。返し方は結構浮かんだ。俺の女ってとか、貶すなって割りに自分がクソ呼ばわりしてるじゃんとか、有難うとか。でも結局、何も言えなかった。胸中を漂う嬉しさが上回って、こんな言葉一つで易々と安心してしまえる自分に、つい笑ってしまった。

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