ヒーローを夢見ていた高校時代。私は人を、殺しかけたことがある。

突然だった。柔らかな人肌に皹のような創傷が増えていって、傷口から赤が伝って、どれだけ止まれと願ってもダメで。暴走した個性が血肉を欲しているかのような、とても嫌な感覚だった。

あの時消太がいてくれなければ、私はたぶん立派な人殺しとして雄英の顔に泥を塗っていた。彼にはいくら感謝してもし切れない。個性を抹消しながら、一瞬にして畏怖の対象となった私に臆することなく近付いて、ぎゅっと抱き締めてくれた。大丈夫だから落ち着けと、鼓膜のすぐ傍で宥めてくれた。




「なまえ?」
「ここだよ」


私を探す声に、ぽふぽふシーツを叩いて教える。明かりがついたリビングから顔を覗かせた消太は安堵の表情を浮かべ「何で俺の部屋に居るんだ」と眉を寄せた。「落ち着くから」なんて適当に答え、覆い被さるように寄せられた唇へお帰りのキスを贈る。

雄英高校を去ってから十三年余り。何も告げずに姿を消した薄情な恋人をずっと心に留めておいてくれたらしい消太と偶然再会し、もう逃がさないと言わんばかりの猛アタックを受けて同棲を始めたのは、ほんと、神様の悪戯としか言いようがない。


「部屋一緒にするか?」
「やだ。消太寝相悪いんだもん」
「……」
「冗談だよ」


太い首に腕を回し、さっきからずっと皺を刻んでいる眉間へ唇を寄せる。謝罪は言わない。その代わりにキスをする。それが、ここに来てから二人で決めたルールだった。


「眠ってる間に個性が出たら大変でしょ」
「……部屋探す時、2DK以上にこだわってたのはそれが理由か?」
「うん」


別々に眠っていれば、犠牲になるのはシーツと枕とせいぜいベッド本体くらいで済む。お金を出せば買える。でも消太はそうじゃない。別に彼に限ったことではなく、誰かを傷付けるのはもうたくさん。創傷自体は小さくても、例えば、頸動脈をスッパリいく可能性だってないわけじゃない。

あの日から、怖いものが随分と増えてしまった。ただ、信じられることもそれなりにある。私のことを彼が怖がらないとか、何があってもひたむきに愛してくれるとか、そんな現実はいつも痛いほど優しい。


消太の表情から色が消える。
「そんな顔するだろうなって思ったから内緒にしてたんだけど」と苦笑すれば、バツが悪そうなキスが降ってきた。

まったく。こんな臆病で面倒な女のことなんて、さっさと忘れてしまえば良かったのに。忘れるには十分過ぎる時間があった筈なのに、見る目のない人。


「彼女作っても良いからね」
「一生ねえから安心しろ」
「目移りも?」
「しない」
「自慢じゃないけど、私良い女じゃないよ」
「知ってる。それでもお前が好きだよ」
「……ぞっこんだね」
「今更だな」


軽く鼻で笑った彼は、緩慢な動作で立ち上がった。躊躇いなく差し出された手を握り、お姫様よろしく力を借りて隣に並ぶ。


「お前こそ、勝手に消えるなよ」
「分かってる。ずっと傍にいる」


消太は、また私が居なくなってしまうんじゃないかって怯えと共に。私は、消太をいつかこの手で殺してしまうんじゃないかって恐れと共に、息をしている。ふ、と翳る瞬間は必ず日々のどこかにあって、それでも手離したくないと思えるだけの幸福が、ここにはたくさん眠っている。

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