高校に入学してすぐ、無個性であることを隠したままバイトを始めた。相変わらず血が繋がっているだけの冷めた家から逃げるようにシフトを詰め込み、外で時間を潰すことが増えた。夜の河川敷は静かでいい。誰の目もなく、声もなく。何度も屋上から飛ぼうとして、結局ひと握りの勇気さえ出せなかった後悔と共に生きている私を嗤う喧騒もない。

どうしてか良く構ってくれた大きくて温かな手は、中学卒業と同時に私から離した。ああいや、元々握っていなかったかもしれない。差し出されてすらいなかったかもしれない。それでも当時『高校どこ行くつもりだ』とか『決まったんか』とか。閉口したままの私に何度も違った尋ね方をしてきた彼は確かに優しく、たぶん好意的だった。

どうせ幸せになんてなれない私に、傍で生きてみたいと思わせる人だった。だから何も告げず、連絡先を変えた。未練なんてない。ただ出会う前に戻っただけ。私が私を殺すために、そうでなければいけなかった。涙は出ない。鼻の奥もツンとしない。悲しさよりかは不甲斐ない自分に対する呆れが大きいのだろう。


はあ。

溜息が夜の静寂に溶けたその時、不意に掴み上げられた左腕が軋んだ。


「てめえ……みょうじなまえだな」
「……」
「電話は使われてねえ家にも帰ってねえ。どこぞでくたばってやがんのかと思えばンなとこで暇潰しかクソ女」
「……」


地を這う低音。荒い言葉。燃えるような赤い瞳。あの爆豪くんだって瞬時に分かった。まだ離れて半年ほど。忘れるわけもない。

喉が萎縮してしまって上手く声が出ない私の目の前で、彼は顔を顰めた。「なんで俺から逃げたか言え」と、いっそ恐ろしく感じるくらい穏やかな声色。ようやく震えることを思い出したカラカラの声帯で「逃げたわけじゃないよ」と答えをしぼり出す。


「爆豪くんといると、死ぬことが怖くなるから」
「それが普通の感覚だろが」
「違うよ」
「あ?」
「個性があって、恵まれた家庭に生まれて、無条件に愛されることが約束された人の感覚だよ」
「……まだ死にてえんか」
「ずっと、苦しいままだから」


口を噤んだ彼の真意は見えない。数秒黙ったまま。まさかまた会えるとは思ってもみなかったその瞳と見つめ合ったまま、ただ降りた沈黙を呑む。やがて「分かった」と独り言のように呟いた爆豪くんは、私の首を掴んだ。


「殺してやっから、離れんな」


思わず瞠目する。


「人殺しはしないんじゃなかったの?」
「死にてえ奴を殺してやんのは人助けだろ」


言うが早いか。ぐっと喉を圧迫された。背中を嫌な汗が伝って、爪先から徐々に血の気が引いて、だんだん息が覚束なくなって。困ったな。吸えもしないし、吐けもしない。

立派な個性があるのに絞殺だなんて、私にはその程度がお似合いってことだろうか。それとも怒っているのだろうか。お礼も謝罪も、思っているほど多くは伝えられていないのだけれど、今やめてって言えばやめてくれるだろうか。いや、やめてくれないだろうな。どうせ死にゆく負け組の言葉なんて、勝ち組である彼には必要ない。そもそも"やめて"なんて、言えた立場ではない。

言うなれば、そう。夢みたい。最期にこの手が触れているのも、この瞳が映しているのも、高嶺の花でしかなかったあの爆豪くんだ。

霞みゆく視界に、そっと微笑む。

幸せって、こんな感じ、かな―……。




「っ……けほ、」
「たく、嬉しそうな顔しやがって」
「は……、っ……?」


意識が落ちる一歩手前。消えた圧迫感に当惑する。力が入らない体は彼の腕の中へ易々と抱き込まれ、背中をさする手はちゃんと温かい。噎せながら酸素を取り込む。ふわふわする。

私、死んでない……?

まだハッキリとしない意識の中、鼓膜を貫く舌打ちが一つ。


「おい、てめえ今幸せだったな? その感覚覚えたまんま二年半生きろ」
「、にねん…はん……?」
「少なくともそん頃俺はプロだ。てめえ一人どうってことねえ」


何だ。つまり、どういうことだ。別に意地悪で生かしたわけじゃなくて、本当に殺す気があったわけでもなくて、ただ幸せって感覚を教えるために、高校を卒業したらこんな私を迎えに来るために、首を絞めたってこと?

全然上手く働いてくれない頭に、彼の言葉が、響いて、広がる。


「俺の隣で、また幸せにしてやる」

back - index