空を覆う灰色の雲が、ついに身じろいだ。ペン先を走らせる音、カチカチノックする音に混じって、あっという間に立ち込めた雨音が鼓膜を刺激する。

教卓から静かに動いた先生が窓を閉める。
チャイムが鳴って「はい、そこまで」。


傘、置いて来てもたなあ。

どうせ午前だけのテスト期間だと高を括ったつい数時間前の自分に溜息をこぼし、回答用紙を集めていく。先生に提出した戻り際。顔を上げた視界の端で、机に頬杖をついていた角名がにこっと微笑んだ。小さく手招かれ、首を傾ける。「どしたん」って近寄れば「一緒に帰ろ」って誘われた。


「電車やなかったっけ」
「そうだけど送ってくよ」
「ちょっと遠回りんなるで?」
「知ってる。でも傘ないでしょ。濡れて帰るつもり?」


形のいい瞳は、いつも何を考えているのか読めない。どうして傘がないことを知っているのか。折りたたみ傘を持っているような女子には見えないってことか。まあいいか。事実だ。よろしくお願いしてから席へ戻る。

ホームルームが終わるや否や、双子に絡まれる前にと早々に連れ出された。角名を介して話すようになったミヤサムはまだしも、別クラスの片割れは確かに少々騒がしいかもしれない。




こんなに近くで並ぶのは、二人で涼んだ体育祭ぶりだろうか。「おいで」と呼ばれ、大きな傘の中へお邪魔する。ごく自然に気遣ってくれる彼の声は心地よく、なんとなく澄んでいた。

そういえば人の鼓膜は、雨粒に反射して傘の中で共鳴した声が一番綺麗に聞こえるのだと、何かで読んだことがある。もしやこれが、なんてぼんやり思いながら「もっと寄りな」ってお言葉に甘えて肩を寄せた。私はともかく、傘を傾けてくれている角名が濡れてしまうのは忍びなかった。

時折触れ合う肌がくすぐったい。


「休みの日とか何してんの」
「んー……ほぼほぼ部活」
「あー。この前コンクールメンバーに選ばれたって言ってたね」
「そうなんよ。あんま好きちゃうけどしゃーないよね」
「好きじゃないの?」
「コンクールがな。バレー部の応援しとる方がなんぼかええで」
「ああ。あれいつも凄いよね」
「どれ?」
「サーブん時とかピタッて止まるじゃん」
「指示する人がおるからね」


ふうんって相槌。吹奏楽自体にあんまり興味はないのだろう。私が退屈しないように話してくれているのか、それとも単なる好奇心か。


「みょうじは何吹いてんだっけ」
「トロンボーン」
「……ごめん、楽器詳しくなくて」
「ラッパにスライドする棒ついてるやつやで」
「ああ」
「分かった?」
「うん」


上目に盗み見た表情は相変わらずスンとしていた。けれど私の視線に気付いた途端、いつも教室で目が合う時みたいに、にこってしてくれる。「俺の顔に何かついてる?」と冗談めかしては、話を続けようとしてくれる。歩幅だって合わせてくれている。優しい人。

おかげで気が付いたら、もう家の前。お礼とともにいつの間にか掴んでしまっていた彼の服を離す。傘から出る数瞬手前。「ねえ」と降ってきた声に再度顔を上げれば、さっきよりも近くに角名がいた。


「俺、そんなお人好しじゃないよ」


ひとつ傘の下。鼻先が触れ合いそうな距離で、スッとした形のいい瞳に私が映る。肩に添えられた手。真っ直ぐ私を見つめる角名から、目が逸らせなくて。


「鈍すぎ」


透明な声が鼓膜に届いた頃、たった一瞬唇に触れた熱を残して「考えといて」と引いた彼の背中は、霧雨に紛れていった。

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