お風呂から出ると、ソファーの上に男がいた。一瞬心臓が止まりかけた私をよそに「あ、なまえさん。お邪魔してまーす」なんて飄々とした笑顔で手を振った男――鷹見くんは、夜のパトロールついでに寄ったのだとお決まりの台詞を吐いて、コーヒーを飲み干した。
「それ、もしかして私の飲みかけ?」
「だったら間接キスかもですね」
「乙女か」
「あれ、意外と冷静」
「思春期真っ只中じゃあるまいし、そんくらいで照れないよ。鷹見くんなら別に良いしね」
軽口を仕舞った瞳が見開かれる。そうして「ほんとそういうとこズルいですよね」と、心なしか照れくさそうに破顔した。私的には何がズルいのかさっぱり分からないけれど、まあ鷹見くんの気が休まっているなら何でもいい。心の安寧を象徴する年相応な表情が好きだった。
髪を拭きながら冷蔵庫内の牛乳をコップに注ぐ。「今更そんなの飲んでも身長伸びませんよ」なんてけらけら茶化してくる失礼極まりない金髪をはたき、案外触り心地がよかったものだからついでにひと撫でして洗面室へ。別に身長が欲しくて飲んでいるわけじゃない。単にカルシウムと鉄分を摂取しておきたいだけ。
手に取った化粧水でお肌を整え、乳液で保湿。ドライヤーのコンセントを挿せば、ご機嫌取りのつもりだろうか。背後から伸びてきた手に奪われた。
「はい、前向いとってー」
ぶおぉん。振り向く前に大きな風音が鼓膜を覆う。遠慮なくさわさわ髪を乾かしていく手は、まるで美容室さながら。自然と力が抜けるままに凭れかかれば「ちょっと。真っ直ぐ立っててくださいよ」って肩を押された。鏡越しの鷹見くんは楽しそうで、何を言わずともお気に入りのヘアオイルで仕上げてくれるあたり、私のことをよく分かっていらっしゃる。
「俺この匂い好きなんですよー。なまえさんって感じで」
「はいはい。どーもね」
すんすん香りを嗅がれつつも受け流し、腕の中でくるりと反転。
「で?」
機嫌を取るってことは、イコール本題があるってこと。幸か不幸か、心の内側を殆ど見せない鷹見くんのおかげで、そんな洞察力だけは身に付いていた。
苦笑混じりに「敵わんな」と下がった眉。悪い予感はしない。だって、降り注ぐ眼差しがこんなにもあたたかい。
「迎えにきました」
「私を?」
「はい。やっと色々落ち着いたんで先にと思って」
そう、ズボンのポケットから取り出されたのは紺色の小箱。何が入っているかなんて、年頃の女なら誰だって想像に難くない。
「なまえさんのこれから全部、俺にくれませんか」
身を屈めた鷹見くんは私の視界を占領して「大事にしますんで」と、悪戯に首を傾けて微笑んだ。いつもの何倍も大人びた笑い方だった。