「適当に座ってて」


部屋へ入るなり、開口一番気を遣ってくれた広い背中に指先を伸ばす。そっと添えた手のひらの向こう。薄いティーシャツ越しに、ぴくりと波打つ肌。

踏み出しかけていた人使くんの足はものの見事に固まってしまって、思わず笑いながら頬を寄せる。コンマ数秒の間に、驚きだけはかろうじて嚥下出来たのか。振り向いた瞳は、戸惑いだけを宿していた。


「なまえ?」


返事は焦らすことにする。ただ微笑んで、押し当てたままの頬を擦り寄せる。彼の全神経が私一人の為だけに研ぎ澄まされている今この瞬間を、たったの少しも取り零したくなかった。

寂しいからじゃない。
敢えて言葉にするなら、勿体ない。



なんとなく会いたいなあって時に『なんとなく顔が見たくなって』と会いに来てくれる。涙が止まらなくて仕方がない時は、いつの間にかそこにいて胸を貸してくれる。子どもみたいな我儘もみっともない嫉妬も、彼にとってはすべて許容の範囲を出ないのか。『なまえなら可愛いって思えるから』なんて笑い混じりに、けれど心底気恥ずかしげに首裏を掻きながら容易く甘やかしてくれる人使くんが、ただ好きで、恋しくて、愛おしくて――。



引き締まった背筋を撫でる。そのまま腰骨を伝い、一瞬震えた腹筋をなぞるように腕を回して、ぎゅう。

日を追うごとにどんどん男の人へと成長していく身体は厚みがあって、残念ながら私のちっぽけな腕じゃあ収まらない。普段はあんなに痩せて見えるのになあ。でも別に良かった。風のないこの部屋で大気が揺れたのは、彼が笑ったから。それだけで私の世界は、簡単に色付いてしまえる。

幼子の頭を撫でるようにぽんぽんと手首を叩かれ、やんわり握られ、平均的だった熱が上昇した。相変わらずのカサついた指。皮膚を滑るそれは、いつだって私を否定しない人使くんの、ひどく優しいお伺い。そろそろ離してくれませんか。もしくは、どうしたの、かな。

気になって腕を解く。反転してこちらを向いた彼は眦を緩め、少々困ったように微笑んだ。


「どこにも行かないよ」


不安がっているとでも思ったのだろうか。含みを孕んだ言葉や一身に注がれる眼差しは、私が一言も答えなかった理由を探しているようだ。

話すのは得意じゃない。だからこそ彼は仕草や表情の、友達ですら気付かないようなちょっとした変化を心に留めてくれる。何も言わなくたって分かってくれる。それが存外心地よくて、甘えることが自然と身に付いてしまったけれど、そうだね。こればっかりは分からないよね。

いつも遠慮がちで、自分を卑下することに慣れてしまっているあなたは、あまり強請ることを知らないから。そうでなければ呼吸さえままならない世界で、それでもヒーローにって意志を抱いて、たった独りで泳いできたから。でも、もう大丈夫だよ。安心していいんだよ。


「知ってる。引っ付きたかっただけ」


心配する必要なんて何もなくて、ただ贅沢三昧な私がちょっと欲を出してしまっただけなんだよ。そんな意味を込めて、もう一度抱き着いてみる。体温を分ける。言葉と温度と、後は何が欲しいだろう。「ならいいけど」って笑う声が穏やかで、弱ったなあ。どうしようもない幸福感に包まれて、もう何も浮かびそうにない。


「時間作ってくれてありがと」
「全然。暇だったし」
「人使くんも会いたかった?」
「まあ、……うん」


平静を装うわりに、混ざった体温の内側で弾む鼓動がなんとも可愛らしい。「今心臓鳴ったよ」と顔を上げれば、照れくさそうに視線が逸れた。ついで壊れ物を扱うようにそうっと抱き締められ、よく知った柔軟剤の香りが鼻腔をくすぐる。

酸素と一緒になって私の肺を満たした人使くんは「好きな子に引っ付かれてるからな」と、溢れんばかりのこの胸までいっぱいにしてくれた。

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