大人の隠れ家。正にそんな印象のシックな店内。天井に明かりはなく、柱に沿った間接照明とテーブルで揺らめくキャンドル。それから床に埋め込まれたグランドライトを頼りに、ゆったりヒールを鳴らす。卒なくエスコートされ、奥のソファー席へ。

こんな所に誘われるだなんて何年ぶりか。

品の良いジャズナンバーが鼓膜を震わせ、けれど、残念。彼には敵わない。その艶やかでいてザラついた声の前では、どんな音も演奏も霞んでしまう。


「良く知ってたね。こんなお店」
「ああ。前に潜入案件で世話んなってな」
「何それ気になる。バーテンに扮したりしたの?」
「まさか。俺がそういうの向いてねえって、お前知ってるだろ」


自嘲気味に引き上げられた口角に合わせ、肌が動く。いつもの髭が見当たらない、さらりとした口元。

ちょっと幼く見えるね、なんて言ったら失礼かな。合理性を無視した普段の姿も好きだけれど、こっちはこっちで良いなあとも思う。詰まるところ、すっかり惚れ込んでしまっているこの心は、彼が彼であるなら何だって良いのだろう。


好きな物をと促されるままにメニューを覗き、その辺ではあまり見かけないスプモーニをお願いする。カンパリをトニックウォーターとグレープフルーツで割った、赤いようなピンク色のようなお酒。「随分可愛いのを頼むんだな」と言った消太はスプリッツァーを注文した。白ワインに炭酸水だなんて、消太の方こそまあ随分と可愛い口馴しだ。

間もなく運ばれてきたグラスを「お疲れ様でした」って軽く当てる。一口舌に馴染んだスプモーニはとても美味しく、仄かな甘みと爽やかな酸味が、肩の力を引き連れてふんわり鼻腔を抜けていく。


「で、今日はどうしたの?」


テーブルに肩肘をついて隣を見遣る。少し黙った消太は「たまには良いかと思っただけだ」と視線を逸らした。

さてさて。見え見えの嘘に騙されてあげるか否か。どうしようかなあ。きっと毎日忙しいだろう仕事終わりに時間を作って、身なりを整えて、お洒落なバーに誘って。


「ほんと私のこと好きだよね」


ジュース同然のアルコールを喉へ流し込んで微笑む。相槌もなく緩やかに戻ってきた視線は、いつもと変わらない。本当に私のこと好きなのってくらい気のない眼差し。初めて会った時からそう。

彼の私に対する好意は、決して表面的ではない。まだ付き合い始める前、それなりに恋愛経験を積んでいた私でさえ、想いを告げられるその瞬間まで全く気付かなかったくらいだ。でも今は分かる。胸の内側で虎視眈々と燻る熱。そんな油断ならない愛情が、存外深いってことも知っている。


「なあ。お前、前に言ってたよな」
「んー?」
「どうしたら俺が幸せになるか」
「ああ言ったね。やっぱり女として、好きな男は幸せにしてあげたいじゃない」


あの時は『普通逆だろ』と鼻で笑われたんだったか。確か三ヶ月は前だった。飲み会帰りの私を遅いし危険だからってわざわざ迎えに来てくれた夜。

でも今夜は、そうじゃないらしい。

「今も変わってないのか」って見つめられ、頷きながら必然、見つめ返す。途端、肌で感じられるほど和らいだ視線が伏せられた。

「なら頼む」

そう、テーブルに置かれた四角い小箱。キャンドルの光が照らす中、震えそうな手で開いたそこには板状のクリスタル。四隅が留められているその真ん中には、堂々たる輝きを放つ大粒のダイヤモンド。


「俺が幸せになるには、お前が必要なんだ」


腰に回された手が温かい。

真剣に考えてくれてたのかとか、お店も渡し方もタイミングもたくさん悩んだんだろうなとか、少々デザインにうるさい私の為に指輪のデザインは選べるよう、ダイヤモンドだけにしてくれたんだろうなとか。溢れんばかりの幸福が詰まった視界で、どこまでも純真な光が滲んで、重なって。


「結婚してくれ、なまえ」


もう。そんな追い打ちみたいに囁かないでよ。嬉しいだけじゃ足りなくて、有難うだけじゃ伝え切れなくて。せり上がった熱の名前を今、必死に探してるんだから。ねえ消太。答えなんて分かりきってるでしょ。だからもう少しだけ、ほんの少しだけ、良い子で待ってて。

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