閉じている瞼を優しく撫でる。痛みがあるかは知らない。少なくとも私の前で、彼が痛がる素振りを見せたことはない。それでも留め具と境目は触らないよう気を付けながら、爛れた皮膚をつ、となぞる。こうして触れる度、起きている時の彼はいつも『あんま気のいいモンじゃねえだろ』なんて逃げようとするけれど、私は触れている実感があっていいと思う。

規則正しい呼吸音が、寂しがり屋な鼓膜を宥めていく。

ごうっと音を立てたのは、引越し当初からお世話になっているクーラー。冷ややかな風がカーテンを揺らし、薄ぼんやりと透けた月光がゆらゆら。


「まだ起きてんのか、なまえ」


視線を戻すと、さっきまで閉じていた瞼から青いような緑色のような瞳が覗いていた。「ごめんなさい。起こすつもりはなかったんだけど」と手を引っ込める。喉の奥で小さく笑って頭を撫でてくれた荼毘は、別に眠っていたわけではないらしい。


「俺が寝た後、お前がどうしてんのか気になってよ」


そう言ってのけては、悪びれもせず口端を吊り上げた。人を嘲るような相変わらずの笑い方だけれど、たぶん心配してくれているのだろう。私がきちんと眠れているか。抜け出してどこかへ遊びに行ったり、あるいは独りで泣いたりしていないか。

全てにおいてあまり興味を示さない男が狸寝入りまでして気にかけてくれるだなんて、何ともくすぐったい。幸福がどんなものかなんて知らないけれど、きっと好きな人に愛されているこの甘やかさがそうなんだろうと思う。何十億と存在する人間が酸素を共有するこの世界で、同じ国に産まれたこと自体がたぶん奇跡で、出会って言葉を交わして恋に落ちる確率なんて、それこそ奇跡以上の、運命なんて陳腐な言葉では到底言い表せない何かだ。これを幸福と呼ばずして、何と呼ぼう。


「おまじない、してやろうか」
「おまじない?」


頷きながら今度は仰々しく、にやりと笑う。


「この瞬間、お前は生まれ変わる」


前髪を撫でるように優しく払い、ざらついたその唇が額へ寄せられる。軽やかに響いたのは月夜に不似合いな、随分と可愛らしいリップ音。

何をするかと思えば、まったく。キスひとつで生まれ変わるなら、こんなに苦労はしていない。ああでも、そうだね。貴方に触れられたあの日からずっと、私は幸福の中にいるのかもしれない。貴方もそうであったら良い。そうであったなら、どんな味気ない世界でだって二人だけで生きていける。



「ありがと」


微笑んで、彼の首筋から後頭部へ指を差し入れる。同じ香りも猫みたいな手触りも全部が愛おしく感じられるままに引き寄せて、狭い額へおまじないのお返し。


「生まれ変わるなら、一緒にね」


数瞬遅れて目元を緩めた荼毘は、折角の嬉しそうな顔を隠すように私の首元へもそもそ埋まりながら、くぐもった一音を寄越した。

back - index