好きな人が自分のために待ってくれているっていうのは、なんて贅沢なんだろう。


誰もいない靴箱横。長方形の傘立てに腰を落ち着け、長い脚を投げ出したまま背を丸めてスマホを見ている一静。思わず緩みそうになった表情筋を慌てて引き締める。

急な委員会の呼び出しに応じなくてはならず、遅れる旨は先にラインで伝えてあった。『先に帰っててもいいよ』って精一杯の気遣いを『待ってるから安心して』とナチュラルな気遣いで包んでくれた一静に、ちゃんとお礼も想いも送ってあった。『ありがと。そういうとこほんと好き』って。にも関わらず、あろうことか長引いた先生の話を手短に切ることも出来ず、結果、予想を遥かに上回る一時間以上も待たせてしまった私が彼に取り繕うべき顔と言葉は、常識的に考えても彼女的に思案しても、ごめんなさい一択だった。笑顔なんて言語道断、ご法度だ。

取り繕うといっても、別に申し訳なく思っていないわけではない。少なくとも、三階からの階段を一段飛ばしで駆け下り、そのまま渡り廊下を全力疾走してすっかり切れてしまった息を整える間も惜しんだくらいには、早く会いたかった。


爪先で硬い床を蹴る。アリスブルーの袖を掴む一歩手前、彼は振り向いた。その涼しげな瞳に私が映って、ついつい綻んでしまいそうな顔を俯けて誤魔化す。腰を曲げて膝に手を付き、乱れた息と共に「ごめん、」と言葉をこぼす。


「凄く、遅くなって、しまって、」
「全然気にしてないよ。落ち着いて」
「いやほんと、申し訳なく、思っておりまして、」
「分かってるから、落ち着いて。体力無いのに走ってきてくれたんでしょ」


笑い混じりの落ち着いた声が鼓膜を宥める。小さな子どもの頭を撫でるように大きな手が数度頭上を行き来し、するりと髪を滑りおりたそれは私の手を容易く捕まえた。長く節張った指を優しく絡め「はい、深呼吸しよ」なんて。ああもう。限界だ。彼の温度が滲む度、彼の視線も意識も私一人が独占出来ているんだって目眩がするほど鮮やかな幸福を実感する度、むず痒さを伴った熱が胸の底からぶわっと湧き立って、やっぱりついつい笑ってしまう。


言われた通り、深呼吸を三回。幾分か整った呼吸に心の中で良しと唱えて上体を戻せば、彼は視界のやや下方で「落ち着いた?」と首を傾けた。頷きながらお礼を告げる。柔らかな眼差しを一層和らげ、いつも摘まみたくなるくらいつんとしている唇が、緩やかに弛んだ。降りた沈黙さえ心地いいのは、相手が一静だからか。ただ手を繋いでいるだけの可愛らしいスキンシップひとつで、体温を分け合うことが出来ているからか。

手持ち無沙汰に甲を擦る爪先が、なんとなくくすぐったい。


「一静見下ろすの、新鮮だね」


クラスは別。部活も違う。委員会だってそう。だからこんな風に、いつもは遥か頭上にある顔が目の高さより下、なんてことは早々ない。

一静も似たような感覚で、なんならお気に召したのか。「俺も、なまえ見上げんの新鮮」なんてご機嫌さん。全然立ち上がろうとしない。甘えているようにも、堪能しているようにも見える。でもそろそろ帰らないと。一静も、そんな所に座ったままじゃ窮屈だろう。


「さ、帰ろ。門閉まっちゃう」


ただでさえ私のせいで遅くなったのだ。外はまだ明るいし、もしかしたら門だってまだ閉まらないかもしれないけれど、今日同様明日もテストが待っている。他の生徒は皆良い子で帰路についたのだろう。普段喧騒で溢れている校舎は静寂そのもので、誰しも必ず経由するこの場所でさえ、未だ人影が通る気配はない。

好きに遊ばせていた無骨な手を握り、どうせ引っ張ったって敵わないのだから、ぷんぷん振って催促する。それがあんまり可笑しかったのか、子供っぽかったのか。吐息混じりに笑った一静は、けれど腰を上げないまま「ちょっとだけ」と。「俺も待ったから、なまえもちょっとだけ待って」と、随分ずるい言葉で私の足を縫いとめた。


「もう少し、こうしてたい」
「……」
「だめ?」
「……、」


真っ直ぐな瞳にじわじわ焼かれ、皮膚のみならず胸の内側までもが火照る。確信を持って握り返された手が熱い。喉が詰まって、顔が熱い。恥ずかしいのに、どうしよう。嬉しくって、どうしたらいいんだろう。

既に頷く以外の選択肢が消えていることに気付いたのだろう。あくまで視線はこちらを捉えたまま。「そういうとこ好き」と、心底満足気にどこかで見たような言葉を言ってのけた。

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