雄英に入学して、初めて知り合ったみょうじさんは、とても変わった人だった。

普通なら畏怖する俺の個性を自分に使って欲しいと申し出てきただけでなく「まるで麻薬だよね」なんて満足気に微笑む。その上、俺の個性にかかっている間は思考が輪郭を失い、ぼんやりと浮遊しているような、羊水に揺られているような、ひどく不思議な心地良さに浸れるのだと言う。


自分が自分じゃないようで気持ち悪い。

大多数がそう揶揄する中で、ただお礼を述べた彼女は「またお願いね」と、誰もいない教室から去っていく。何をさせられるか、あるいは、されるかも分からない状態になることを自ら望む言動に、当時はひどく驚いたし、嬉しかった。

薄っぺらい言葉じゃない。もういちいち傷付くほどの繊細な心など持ち合わせていないけれど、それでも、悪気なく古傷に爪を引っ掛けられることが多い日常の中。全然親しくないはずの俺を真っ向から信用してくれる存在は、言い表せないくらい、胸の内を揺さぶった。

もちろん、本心はわからない。決して交わす言葉は多くなかった。でも聡い人だった。高校の三年間で知り得たのは、色んなことを考え過ぎる人だってことくらい。


記憶の中の彼女は常に何かを抱えていて、いつも彼女自身を蔑ろにして「心操くん、今日もお願いしていい?」と、疲れた顔で呟く。

どう手を差し伸べたらいいのか。

悩みに悩んだその答えはついぞ見つけられないまま、ただ彼女に休息のひと時を与えられるならと、彼女の為に個性を使っていた日々が、流し込んだアルコールと共に脳裏を巡った。




「あれ、みょうじさんもうカラじゃん。次何いくー?」
「ごめん、もう大丈夫」
「まあまあそう言わず!何なら帰り送るし!生いく?ハイボールとかのがい?」
「や、ほんと大丈夫だから……」


同総会という名の酒の席。
反対隣に座っている男の無骨な手が、彼女の肩を捕らえる。随分酒が回っているのか、それとも狙っているのか。いくらかつてのクラスメートと言えど、見逃せたものではない。

ふつふつ湧き上がる胸くその悪さに促されるまま、男の名前を呼ぶ。カチリ、とかかった洗脳の個性。本当、酔っ払いは引っかかりやすくて助かる。彼女に触れている手をおろさせることは、さして難しくない。

自然に見えるよう、かける言葉を選ぶ。
まあ、この喧騒の中じゃ、どうせ誰も気にしちゃいないだろうけど。


「そろそろ迎え、来てるんじゃない?」
「……うん。心操くんも、さっき電話鳴ってたよ」
「え、マジ?」
「うん」


困惑しつつ携帯を確認したが、着信履歴はなかった。みょうじさんなら合わせてくれるだろうと吹いたホラを、よもやそのままお返しされるとは。

小さく緩む口角を隠せないのは、普段飲まないアルコールのせいか。
俯くことで誤魔化して、カバンを手繰り寄せる。


「俺もそろそろだ」


財布から出した二人分の会費。テーブルに置いたそれを目にした彼女へ、何も言うなと視線で制し「え、もう帰っちゃうのー?」と逆隣から絡んでくる猫撫で声を適当にいなす。あいにく、みょうじさん以外の面倒を見る気はない。

じゃあお先、と軽い挨拶を残し、一瞬ふらついた華奢な背中を軽く押しながら、店を後にした。


砂利を踏んだ彼女のヒール。ふらりと傾く体。
咄嗟に受け止めたみょうじさんは随分と華奢で軽く、あの頃よりも鮮明になった男女の違いが、ほんの少し気恥しい。

思わず引き寄せてしまいそうな邪念を振り払い、背中をさすった。


「大丈夫?」
「ん……ごめ、今余裕なくて……」
「全然。気持ち悪い?吐きそう?」
「や、そんなのは、大丈夫……」
「無理すんなよ。凭れていいから」


弱々しい謝罪の後、素直に預けられた猫ほどの体重を支えながら、近くの公園まで連れ添う。

周りの空気を悪くすまいと頑張ったのだろう。のんびりと空けられるグラスは、いつも度数の高いアルコールだったように思う。まずった。顔に出ないものだから飲めるクチなのかと横目に見ていたが、早い段階で止めるべきだった。


ガコンッ。

自販機から吐き出されたペットボトルを取る。ベンチへ戻れば、空を仰いでいるみょうじさんの髪が、さらりと風に流れた。


「ごめん、有難う」
「どういたしまして」


さっきよりもしっかりした声に、少しばかり回復したことを知る。キャップをあけてから渡してやれば、再びお礼が聞こえた。


こくり、こくり。

水が通る度に上下する白い喉。長い睫毛が瞬き、目元へ散らばったラメが街灯に反射する。綺麗になったその姿は、すっかり大人の女性で。なのに、あの頃と変わらない疲れた笑顔が胸を刺す。

俺の個性が身近ではなくなってから、一体どうしていたのだろう。果たして、休息と呼べる時間はあったのか。彼女にとって、俺とは何だったのか。俺にとって、みょうじさんとは―――。


「相変わらず、優しいね」
「そんなことねぇよ」
「あるよ。さすがプロヒーロー」
「……知ってたんだ」
「うん。おめでとう」
「有難う。誰かに聞いたの?」
「ううん。なんとなく追ってた。メディアに出ないから大変だったけど、楽しくもあってね。宝探しみたいで」


瞬き二、三度ほどの一瞬、言葉を忘れた。

「俺、宝だったんだ」と茶化せば、途端に「変な意味じゃないよ」って慌てるのだから笑ってしまう。連絡先も何も知らないまま卒業して、お互い違った生き方をしていて、顔を合わせることもなくて。それでも俺の存在が彼女の楽しみだったなんて、本当に可笑しい。

たくさんある席の中で俺の隣を選んだのは、意図的だったってことだろうか。会わなかった時間分だけ膨れた何かを、彼女も胸に秘めているのだろうか。もしそうなら、連絡先を聞くことくらいは許されるかもしれない。

どう誘えばいいのか、いくらか大人になった頭の中で、言葉を選ぶ。


「……ねえ」
「?」
「次は、二人で飯でもどう?」


彼女の頬がほんのり赤いのは、飲み過ぎたアルコールのせいだけではないと思いたい。

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