どこにも行けないね
包丁で半分に切った分厚い食パンをトースターへ。つまみを一度大きく回し、お目当ての分数まで戻す。用意するのはバターとシュガー。まだベッドで眠っている啓悟のための朝ご飯は、お惣菜系と迷った結果、お疲れならと甘い方を選択した。焼けるまで待っている間、私の分も準備する。丁度包丁を置いたところで、ふわり。お腹に回った無骨な腕と、背中を覆う良く知る温度。
「―――おはよ、なまえさん」
鼓膜の隣。起き抜け特有の掠れた声に、背中が小さく粟立った。
「気配は消さないでほしいかな」
「ははっ、すみません。つい」
「もう……。おはよ、啓悟」
「ん」
斜め後ろを振り向いて、触れるだけのおはようのキス。眉を下げて笑った啓悟は、嬉しそうに、真紅の羽をぱさぱさ揺らした。
シュガーバターですか? うん、そうだよ。離れようとしない甘えんぼさんを引っ付かせたまま、小気味良く鳴いたトースター前に移動する。食パン一枚しか焼けないような四角い魔法の箱をあければ、香ばしい匂いが溢れだした。美味しそ、耳元で啓悟が笑う。息遣いさえ伝わる距離が、くすぐったくてドキドキする。
キッチンペーパーを敷いたトレイへ移し終え、バターを塗ってシュガーをまぶした。陽射しを受けてビーズみたいに輝く粒子がキラキラしていて、うんと綺麗。啓悟がいると、世界はずいぶん眩しくなる。
「ほら、出来たよ」
「有難うございます。なまえさんのはこれからです?」
「うん。でもいいよ。先食べてて」
お腹すいたでしょ。持ち上げた指の背で、やわい頬をすりすり撫でて促せば「待ちます。一緒に食べたいんで」なんて可愛い言葉で丸め込まれた。あったかい内に食べてほしいんだけど、まあ、今からチンする方を啓悟用にすればいっか。
食パン二切れをセットして、つまみを一度、大きく回してから戻す。オレンジ色の光の中でじりじり白が焼けてく間、いまだ引っ付き虫な啓悟にぎゅうっと抱き締められた。肩口に埋まった鼻先と、普段風や日光にさらされている傷んだ毛先が首筋を擦り、やっぱりなんともくすぐったくて、ドキドキする。
「なまえさんの心臓の音、結構やばいですね」
「ちょっと。勝手に聴かないで」
「ええ」
困ったような笑い声が鼓膜をさすり、浮いた片手は私の額へ着地する。前髪ごとよしよし撫でられ、思わず吹き出したのとパンが焼けた音とがぴったり重なった。
21.08.20