色も形も声も匂いも
 あなた以外は
  わからない



ドライヤーを置き、魔法瓶みたいなヘアコロンをひと振りする。ふわっと香る甘いにおいは『食べちゃいたくなる魅惑のレディ』なんて謳い文句の人気商品。先日彼氏にフラれた友達の憂さ晴らしに付き合ったところ、粗品と題して進呈された。彼のために買ったんだけど、もう必要なくなっちゃったからなまえが使って。がんばってね。

あの時はなんで応援されたんだろうって心底不思議だったけど、鏡の中の、いくぶん薄い自分の顔を前にして思い当たる。たぶん、兄妹か?ってくらい色気に欠ける私と鉄朗の関係性を彼女なりに心配してる。まあぜんぜん大丈夫だけどね。なんせ付き合いが長い分、人前でいちゃいちゃしたい期間はとうに過ぎてしまっていた。鉄朗の可愛い顔も甘えた声も、私が知っていればいい。見せつけるより、ずっといい。



部屋へ戻ると、寝癖不在の鉄朗がシーツ上で転がっていた。わざわざ買い替えたダブルベッド、どうやらお気に召したらしい。ローテーブルが置けないくらい、私の部屋は以前と比べてずいぶん狭くなってしまったけれど、その分くっついていられるのだから文句はない。

そうっと片脇へもぐり込む。なに可愛いことしてくれてんの。鉄朗の手が、くしゃくしゃ髪を撫でていく。あったかくておっきくて、たとえばお父さんの手のひらみたいな安心感。全身の力が抜けてって、否が応でもふにゃんふにゃんになってしまう。


「おやおや? もうお眠ですかーなまえちゃん?」
「まだ大丈夫だし、ばぶじゃない」
「つっても説得力ねーんだけど」


吐息混じりに笑った声は楕円形。まだ起きているつもりの意識をマシュマロみたいに包みこむ。ふわふわなのに弾力があるの、なんでだろう。


「いい匂いだな」
「でしょ。好き?」
「ん、好き。なんか美味そう」
「高級食材だよ」
「自分で言うの」
「ふふ」


こめかみから髪を流した指が、肩甲骨を下りていく。少々浮いたあばらと背骨をTシャツ越しに堪能し、不意にこちらを向いたと思えば抱き締められた。厚い胸板、硬い体、太い腕、絡んだ脚、それからうんと優しい体温。ぎゅうっとしっかり、けれど程よい圧迫感が、さっき抱いた安心感を増幅させる。頭のてっぺんから爪先まで、全部鉄朗でいっぱいになる。


「さ、寝るか。明日は午後からだから、どうせのんびりだ」
「久しぶりのゆっくりだね。嬉しい」
「俺も。ほら、目ぇ閉じろー。そんでおやすみ、なまえ」


またあした、って微笑みながら目を閉じる。音の世界でクリアに伝わる心音が、眠りの浅瀬へ駆けだした。



title エナメル
21.08.20

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