心の動きは僕らを生かす



「え、関西に転勤?」
「そうなのよ。ごめんねなまえ」

疲れた顔で謝るお母さんに笑ってみせる。ちょっとびっくりしただけだよ。高校くらいは穏やかにって思っていたけれど、こればっかりは仕方ない。両親ともに転勤族で、既にお父さんは単身赴任の真っ最中。まだ子どもである私には、お母さんと一緒に県を跨ぐ他ない。幼い頃からずっとこうでもう慣れた。はいはいオッケー荷造りするね、ってそんな感じ。



新しい制服に身を包み、いつもよりうんと早い時間の電車に乗る。登校初日は通学路で迷っても遅刻しないよう、それから異なる環境に慣れるため、ぐるっと校内を探索すると決めていた。

聞き慣れないアナウンス、関西訛りの話し声、ちょっときつい言葉遣い、電線ばかりの街並み、湿ったにおいと空気感。受けるすべてが新鮮な中、昨日覚えた駅で降りる。改札を出て携帯片手に地図を見ながら進んでいけば『稲荷崎』が毅然と私を迎えてくれた。大きな学校だ。住宅街の中なのに全然狭く感じない。左手に見えるのがグラウンドか。職員室はどこだろう。玄関に入ってみたものの、人の姿が見当たらない。陸上部の掛け声も、野球部のヒット音も聞こえない。さすがに時間、早すぎたかなあ。


とりあえず外に戻ってのんびり奥まで歩いてみると、比較的小柄な建物が目についた。形からして部室棟。誰か出て来ないかなって足を止めれば、タイミング良く扉が開いた。

青いバケツ。ジャージ姿の男の子。灰色がかった白に毛先だけ黒いツートンカラー。俯いていた顔がこちらを向いて―――ぱちり。


「……」
「……」


一瞬だった。本当に、瞬き一回分のわずかな時間。その一瞬から時が止まって、言葉もないまま見つめ合う。彼もそう。まるで同じ。固まったまま――バケツに入った水面さえも乱さないまま――落ち着きを宿す瞳をわずかに見開いていた。

なんだろうこれ、この感じ。ずっと追い求めていたような、探し続けていたような、とにかくそんな宝物を今目の前に見付けたような、不思議な感覚。はっきりとは分からない。けれど特別だ、ってことだけは痛いほどよく分かる。

鼓膜のそばで、鼓動がとくとく鳴っている。朝の自然光がたなびく中、彼だけが、一等眩しくクリアに映る。


「あの、職員室、どこだか教えてもらえませんか?」


気付けば口を開いていた。私の声に、はっとした彼は手元のバケツを一瞥し「これ、片付けてからでもええですか」と、軽く持ち上げながら答えてくれた。もちろん頷かないわけにはいかない。一緒に行ってもいいですか。片付ける場所がどこにあるのか知りたくて、もっと彼を知ってみたくて申し出る。戸惑いながらの了承は(気のせいかもしれないけれど)どこか優しく風を渡った。


「部室、お掃除してたんですか?」
「はい。自分らで使うとこやし、朝練前に毎日」
「何部か聞いてもいいですか?」
「バレーボールです」
「ふふ、やっぱり」
「?」
「すみません。背が高いからバスケかバレーかなーって、勝手に」
「ああ。こんなんまだまだちっさい方ですけど」
「私からしたらじゅうぶんだよ。ほら」
「……」


外水道でバケツを流した彼を見上げる。ぱちり。視線が重なったその瞬間、再び時間がわずかに止まり―――「ほんまやな」。ふ、とやわらいだ眼差しに、心も意識もまるごときれいに攫われた。



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21.09.08

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