まるで合図のように、教室中がざわめいた。
いつもと同じ。最近じゃ、名前を呼ばれるよりも先に「おい、来てんぞ」とクラスメートに肘でつつかれる始末。うるさいなあ、分かってるよ。何でもないように見せてるけど、私もいろいろ心の準備がいるんだよ。

カバンを肩に引っ掛けて廊下に出れば、私を迎えに来ている轟くんが「もう良いのか」と、壁から背を浮かせた。あまり変わらない表情も、どこか近寄りがたいクールな雰囲気も、私をその双眼に映した瞬間、少しだけ和らぐ。


「うん、帰ろう」


手は差し出さない。相槌と共に歩き出した彼の隣に並び、合わせてくれる歩幅に甘んじて、言葉少なに足を進めるだけ。

この関係は、時間にして約二千百六十時間。
約九十日前から始まった。


かの有名なプロヒーローの息子さんで、誰もが羨む強い個性を持っていて、その辺のモブA同等である私には、まるで夢物語の主人公みたいな存在だった。まさか言葉を交わす日が来るとは思わなかったし、そもそも、その目に私が私として認識されることすら信じられなかった。

きっかけなんて、もちろん分からない。たぶん私にとってはほんの些細なことで、彼にとってはとても大きなことだった。三ヶ月ほど前、私を探して突然クラスにやって来た理由なんて、きっとそれだけ。


『やっと見つけた。名前、聞いてもいいか?』


あの日の記憶は、未だ鮮明に引っ張り出せる。目が点になる私の腕を掴んだ、ひんやりした右手。周囲のざわめき。女子の悲鳴にも似た声。それら一切が気にならないくらいの困惑。


付き合って欲しいという彼の言葉は、上手く嚥下出来なかった。

どうせからかっているだけだ。その内飽きる。どんな物語でも、主人公にはお姫様が似合うと決まっている。
だからと言って悪い気がするわけもなく、けれど本気と捉えてしまうことも躊躇われて、見切りを付けるために思い至った期日が、どこかの伝記物で見かけた百日だった。

約三ヶ月半といえば、丁度長期休暇までの期間だ。何も知らないから教えて欲しい。返事は百日後。その間に、きっと色んな感情に整理がつくだろう。本気かお遊びかも判別出来る。


我ながらとても良い考えだと思ったのに、あれから殆ど毎日、轟くんはこうして迎えに来る。私の予想に反して、飽きる様子は微塵も感じられなかった。


「ヒーロー科って大変そうだけど、毎日来てて大丈夫?」
「ああ。そんなに忙しくねえし、みょうじに会いてえ」
「……そっか」


顔色一つ変えず、さらっと飛び出す台詞にはまだ慣れない。気恥ずかしさに胸が高鳴る度、少しずつ絆されている私は、たぶんとっくに彼が好きなんだろう。この手を伸ばせないのは、ただ臆病なだけ。だって私は、誰がどう見ても平々凡々なモブAだ。

今まで接してきた中で知り得た轟くんは、優しくて少し天然で、決して狡猾な人ではないけれど、万が一という可能性がどうしても捨てきれない。百日が経過する前に応えてしまったら、その先に何が待っているのか。
確か伝記物は、百日目の夜にわざと相手が近寄れないよう妨げた結果、実は魔物だったと判明するって話だったような気がする。常に最悪の事態を視野に入れて置かなければならないことは、重々分かっていた。


そんな筈はないって信じたい私と、疑い深い私がせめぎ合う。ポケットの中で握り締めた手は、少し汗ばんでいた。

ふと隣を見遣れば、轟くんの綺麗なオッドアイがこちらを見下ろしていて。逡巡するように、ほんの少し泳いだ視線。いつも真っ直ぐで直球なのに、珍しい。


「轟くん?」


足を止めて、名前を呼ぶ。同じように立ち止まった彼の視線が返ってきたかと思えば、すぐに地面へと落とされた。

一体どうしたのか。やっぱりそろそろ飽きたのだろうか。もう終わりって現実は、あんまり受け入れたくないなあ。
途端に溢れた悲しさを胸に、私の視線も自然と落ちる。けれど、その心配は杞憂に終わった。


「名前で、呼んでもいいか」


遠慮がちに紡がれた申し出を反芻する。顔を上げて頷くまで、そう時間は要しなかった。小さく緩められた口元。嬉しそうに瞳を細めた轟くんは「なまえ」と、意味もなく私の名前を象る。

あなたを信じたいって喚く心が、大きく揺れた瞬間だった。

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