あなたの凪を呼ぶ



長い睫毛がゆっくり動く。瞼の奥の黒曜石は、手のひらほどの文庫本にご執心。そろそろ読むものがなくなってきたと聞いたから、わたしが良いなと思った本を貸してみた。実話系を好む彼とはあんまり趣味が合わないけれど、それでも、愛する人の考え方や生き様を自分が知らない間ずうっと構成し続けてきたかもしれない物語。本好きとして、興味が湧かないわけがなかった。

だから嬉しい。これで良い。その瞳にわたしが映っていなくても、同じベッドに寝そべって、こんなに近くで眺めていられる時間は優しくあたたかい。恵もそう。だって帰らせようとしない。もうすぐそこに夜がいるのに、うつ伏せのまま枕を肘置き代わりにし、骨っぽさが際立つ指で頁をめくる。はらり。紙面が擦れる、馴染み深い音が鼓膜をふるわせる。


ごう、と強まった冷風が、つんつんとした黒い毛先を吹きつける。なんとはなしに撫でてみれば、幼かった眉間に皺が刻まれた。怪訝そうな視線がじろり、降ってきた。


「いきなりなんだ」
「なんとなく」
「……やめろ」


無骨な手に手を払われる。けれど力は入っていない。ぶっきらぼうな恵らしい。本の世界へ戻ったように見せかけて、わたしの様子を実はこっそり窺ってるとこ、可愛いね。実は照れているってことも、隠すために素っ気ない態度になってしまって、わたしを傷つけたんじゃないか気が気じゃないのも、まるっと全部お見通しだよ。

だってわたし、恵のことが好きだもの。好きな人のことってさ、たとえば今、恵がわたしのおすすめ本を読んでくれているのと同じで、深層心理さえも両手で拾って包んで大事にしたくなってしまう。恵が知らない恵をわたしは知っていて、わたしが知らないわたしを恵は知っている。

明日には死んでいるかもしれない世界。なんにも持たない、愛だ恋だくだらないと鼻で笑っている方が云億万倍良かった今世。不幸と幸福、希望と絶望、いつだって背中合わせのそいつらが唯一無二の親友みたいに手を繋いでいる三千世界。それでもわたしは知っている。ほんとは独りで平気なはずの心の中に、あなたのためのふかふかソファを置くことを。その真価と意義を、わたしも恵も知っている。


わたし用の枕に頬を預けつつ、懲りずに頭をよしよし撫でる。玉犬よりはなめらかで、やわらかくって気持ちがいい。さすがに脱兎のふわふわ感には劣るけど、それもこれも、恵らしい。


「なまえ」
「ん?」
「やめろって」
「聞こえなーい」
「おまえな……」


くすくす、くすくす。抑えきれない笑みがついついこぼれ出る。なんとも言えない顔の恵は、吐いた溜息を枕へ沈めた。栞紐を挟んだ本を枕元へ寝かせた片手。男の子って感じのそれは、そのままわたしの肩を掴んだ。

「めぐみ?」

呼んでみたけど返事はない。ただ静かな瞳に囚われて、見つめ合った数瞬後。ぐいっと押された半身が倒れ、シーツと背中がくっついた。部屋の明かりを遮る影が、ゆっくりだんだん近づいて―――


「こら」
「、」


左耳。吹き込まれたのは、あまりに可愛い叱り声。かぷりと耳殻を噛まれてしまい、ぞわりと背筋が粟立った。けれど食べるつもりはないらしい。顔を上げることなくわたしの首に埋まった恵の皮膚は、お風呂上がりみたいにとっても熱かった。


title 失青
21.09.03

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