ぬるい災いに溺れないよう



わたしの人生ここで終わりか。そう思った。大して深い傷でもないのに溢れる赤がとまらなくって、歩く度に地面を汚す。引きずる足はふらっふらで覚束ない。おまけに視界が霞みに霞んでブラックアウト。はい終わり。死んだと思った。のだけれど。


「……、」


見慣れた天井、白いカーテン、吹き込む風。浮上した意識を手繰って視線をずらした先。輸血パックがぶら下がったガードル台の向こうでは、逆立つピンク頭が座っていた。顔全体に浮き出た紋様、赤い四つ目。白いボトルを持つ手の爪は真っ黒で、袖を捲ってさらされている手首にも、顔と同じく腕輪のような紋様が窺える。宿儺だ。現場でもなく、生得領域でもなく。単なる高専の一室にいるのは、まあ随分とめずらしい。

起きたわたしに気付いた彼は、まるで玩具を見付けた子どものよう。「目覚めたか。さすがは俺が見込んだ女だ」と、消毒液を注いだ器に脱脂綿を浸していた。見込まれた覚えは一切ないが、そんなことはどうでもいい。


「何してるの?」
「見て分からぬか」
「……宿儺がピンセット持ってると凶器に見えるね」
「望みとあらば突き刺してやっても良いが?」
「光栄だけど遠慮しとく」
「ふ。冗談だ。そう構えずとも良い」
「……ねえ、何してるの?」
「手当てとやらだ。ほら、少し上を向けなまえ。見えん」


どうやら悪い冗談ではないらしい。言われるままに少々顎を持ち上げると、ピンセットでつまんだ脱脂綿が頬の傷口へ当てられた。わずかな痛みが走り抜け、引き攣る肌。思わず顔を顰めれば、宿儺は喉の奥で笑った。


「いつの時代も、女の顔が苦痛に歪むさまを見るのは愉快だな」


くつくつ楽しそうな笑い声が、低く鼓膜を震わせる。ご機嫌さんで何よりだ。さて一体、どういう風の吹き回しか。

こうして宿儺と対面する機会は少なくない。頻度が高いわけではないが、呪いらしい台詞が耳に馴染むくらいには会っている。任務で虎杖とうたた寝した時、生得領域に呼ばれたことも何度かある。今みたいに体を乗っ取らずとも目の下だったり手のひらだったり、ありとあらゆる虎杖の皮膚から出現しては「おいなまえ」と、話し相手に選ばれたことも多々あった。

たぶんわたしも、お気に入りである伏黒と似たような枠に分類されているのだろう。でなければ、わざわざ横について手当てだなんて、気が向いてもしない筈。たとえそれが“苦痛に歪む顔を楽しむため”であったとしても、だ。


「ありがとう」
「よもや術師が呪いに礼を言うとはな」
「呪いだろうと何だろうと、お世話になったら言うよ、わたしは」


ありがとう。もう一度、宿儺の目を見てお礼を述べる。瞠目した眼差しが不意に弛んで、それからぺたり。意外にも優しくガーゼが貼られたかと思えば、首や腕にある傷口も、上から順に消毒された。



title エナメル
21.09.10

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