今日は眠らずに話していようよ



 三年一組の前を通ると、視線が追ってくる。見られている。そう気付いたのは、委員会の掲示プリントを持参して回った一ヶ月程前のこと。
 視線の主を探すために顔を上げると途端に消えてしまうので、目が合ったことは一度もない。そもそも誰なのかさえ突き止められていない。ただ、いつも巧みにこちらの様子を窺っている。嫌な感じがしないのは、たぶん悪意を孕んでいないからだろう。あくまで静かに、まるで遠くから見守るように、そうっと私を見ている。
 とはいえ無害なので素知らぬふりをしていた。一組には去年同じクラスだった友人が数人いるだけで、普段から用事があるわけではない。だから訪問回数も少なくてそれほど気に留まっていなかったのだけれど、今日、正に今、たまたま見付けた。たまたま教室に残っているのが一人だけで、廊下から入る時に目が合った。

 一瞬瞠目して逸れていったそれは焦りを誤魔化すように頬杖をつき、窓の外を眺め始めた。ゆるくうねる短い黒髪、特徴的な八の字眉、薄く尖った唇、机とイスが窮屈に見える大きな体躯と長い脚。私を見ていた筈の視線は一向に戻ってこないまま。
 まさかこんな風に逃げられるだなんて思ってもみなかったよ、松川。

 足早に机の横へ歩み寄る。「こんにちは」と声を掛けると、少し遅れて同じ挨拶が返ってきた。
 ここ、青葉城西は部活をしてはいけない曜日がある。本当にたまたまだけれど、そんな日の放課後に来てみて良かったと思う。


「誰か待ってるの?」
「まあ、そんなとこかな」
「バレー部の人?」
「……みょうじさんこそ、こんな遅くにめずらしいね」


 平静を装った声と微笑み。本当は誰も待ってなくて時間を潰していたこと。深掘りされると咄嗟についた嘘も動揺も露呈してしまうから話を逸らしたこと。松川と話すのは同じクラスだった一年生の時以来で、それも特別仲が良かったわけではないのに、自然とそんなことが感じ取れた。
 基本的に穏やかでどこか大人びている彼が必死に笑みを保っている様はちょっとおもしろい。私の中の悪戯心に火がともる。


「いるかなあって思ったの」
「何が?」
「運命の人」


 口端で笑ってみせる。松川の机に手をついて、ゆるやかに顔を近づける。普段上にある顔を見下ろすのはなんとなく気分がいい。教室内に私達以外、誰もいなくて良かった。
 無意識に細まった私の視界。その中央にいる松川は瞬きひとつしないまま、冗談だろうと笑うことも呆れることもせずに固まっていた。

 ……このままキスでもしてみようか。

 松川のことは嫌いじゃない。好きと言えるほど多くを知っているわけではないけれど、少なくとも優しい人だと思う。だって、あんなに目で追われていても嫌じゃなかった。たったの一度も、ほんの一瞬さえ嫌だと思わなかった。いつの間にか当たり前になっていて、その眼差しが私の日常へ馴染んでいた。たぶんあれは、とてもなだらかな下心だった。気付くのがずいぶん遅くなってしまったなあ。


 視界に松川以外がいなくなるくらい近付いた頃、彼の手が制止するように私の肩へ触れた。どうやらようやく頭が追い付いてきたらしい。


「みょうじさんや」
「なんでしょう松川くん」
「近いです」


 わずかに泳いだ視線を真正面から絡めとる。逃がしてなんかやるものか。
 彼の目元が赤く染まっているのは、きっと夕陽のせいじゃない。


「嫌?」
「や……嫌っていうか……」
「穴あいちゃう?」
「そーいうのじゃなくて」
「松川はいつも見てたのに、私はダメなの?」


 ぴくり、波打った肌の振動が手のひら越しに伝わった。


「見てたよね? いつも、ここに来る度」


 同じ言葉で追い打つと、松川の眉尻が更に下がった。明らかな動揺が溢れ出し、開きかけた唇がきゅっと結ばれる。おおかた、謝罪も言い訳も相応しくないと思いとどまったのだろう。
 困っている。あの松川が、私のせいで困っている。
 なんて素敵なことだろうと胸が躍る。興味が湧く。この心臓の高鳴りが、はたして好奇心なのか好意なのか、はたまた優越感なのか私は知らない。私自身のことは知らないままでいい。でも、松川のことは知りたいと思った。


title エナメル
23.11.30

Request:心操or松川
赤面している彼を困らせたい

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