あなたの愛したあと
成人したからといって、急に何かが変わるわけではない。風のにおいも、空気の湿度も、夕陽の彩度も、雨の温度も。
傘を手にした華やかな着物姿を見送りながら思い出す。煌びやかな笑顔、美しい髪飾り、希望、期待、夢、大輪の花、小指の先くらいの不安、二十歳という華。成人式。もう、そんな時期か。
学生という名の安全な檻にさよならをしてから、私は私のまま、日々仕事に追われている。とはいえ、テストにバイトに部活にと忙しなく走り回って、時間がどれだけ貴重か知ることさえ考えなかった当時を思うと、今の方が楽なのかもしれない。挫折をいくつか味わって、けれど期待してしまう青さは抱いたまま、いき過ぎない理性を育てている。たとえば、引き出しの奥へ隠したビー玉みたいに大切なものがある今の方が、生きやすいのかもしれない。
今、あなたは何をしているだろうか。
「なまえ」
声が聴こえた。喧噪の中、まっすぐに雨を渡って届いたそれが象っていた音は、私の名前だった。
顔を上げる。いつの間にか靴先に向かっていた視線が、ガードレールの向こう側で甚爾を捉えた。気配がなくて猫みたい。
ヘッドライトも、白く光る雨の筋も見えなくなる。きゃらきゃら楽しそうに弾む笑い声も聞こえない。私の五感が甚爾一色に染まる。惹き付けられる。
先週ぶりだね。そんな言葉は喉の奥に引っ込んだ。雨に濡れたぺしゃんこの黒髪が、ただ愛おしかった。
「傘は?」
「ああ……忘れた」
「うそつき。風邪引いちゃうよ」
歩み寄って、背伸びをして、ビニール傘を差しかける。大人になってから、こうして爪先に力を入れたことが何回あるだろうか。何回、あっただろうか。
汚れることも厭わずガードレールに片手をついて「仕方ないなあ」と、微笑みかける。無機物の冷たさも、砂利の感触も水滴も気にならない。あなたは本当に、仕方がない。
「帰ろ。寄っていくでしょ?」
「いや、悪いが今日は顔見に来ただけだ」
声かけるつもりなかったんだけどな。呟くように甚爾が言う。眉尻を下げ、古傷が遺る口角をわずかに引き上げ、目元をやさしく弛ませる。ごつごつとした指の腹が頬に触れた。まるで壊れ物を扱うように、宝物を愛でるように、湿気を含んだ肌の感触を覚えるように、ゆっくりすべっていっては耳殻をなぞる。
くすぐったいと肩を竦ませれば、甚爾は笑った。詰まっていた息を吐き出すように、ふっと笑った。
「あーあ。おまえ見たら知ってほしくなっちまったな」
「何を?」
「わからねえのか?」
「うん、わからない」
本当はわかるけれど、甚爾の口から、甚爾の声で聞きたいと思う。今夜一緒に過ごせないなら、せめてこれくらいの贅沢は叶えてほしい。どうせまた近い内に訪ねてくるだろうけれど、会えない日に寂しさの蝋燭がポ、と灯ることに変わりはないから。
「うそつき」
さっき私が言った言葉をそっくりそのまま返してきた甚爾は、仕返しができて満足したのだろう。いつも通り食えない笑い方をした。
未だ私の頬に添う手はそのまま。ガードレール越し、屈んだ鼻先が寄せられる。息遣いが微かに伝わる。一つ傘の下、すぐそこに甚爾がいる。
「俺がおまえに会いに来たこと、おまえに、なまえに、知っておいてもらいたかった」
「……うん」
降り続ける雨のせいだろうか。それとも深まる夜のせいだろうか。眼前で細まった瞳が今にも泣いてしまいそうに見えて、思わず肯いた。
知ったよ、ちゃんと。眼差しで、そう伝える。愛おしさと寂寥と、孤独感と恋しさと、私が知っている言葉では到底表し切れない想いがたくさん、胸になだれ込んでくる。ここにはたぶん、甚爾の心も潜んでいる。
置いていっていいよ。あなたの心は私のもとに。うんと可愛がってあげるから。何よりも大切に、大事に大事に持っておくから。もし引き出しの奥が窮屈なら、どこへだって連れていくから。
「嬉しいよ、そう思ってくれて。ありがとね」
「ん」
やわらかな眼差しに、ほんのり心が浮上する。私といると甚爾は笑うことが増える。それだけで明日からもまた、私は私を続けていける。
「じゃあ、また」
「ああ。気を付けて帰れよ」
「すぐそこだから大丈夫」
傾けていた傘を戻す。甚爾は傘を好まないと知っているから、余計な心配を押し付けないよう気を付けながら言葉を選び「行ってらっしゃい」と、手を振った。
24.1.22
Request:甚爾
お互いを大切にしてる・されてる話