僕らすべての夜をふやかしておく



 ゆるやかに風が舞い込んだ。月が眩しい夜には幾分不似合いな優しい風。それはとても軽やかに頬を撫で、横髪をふんわり浮かせていった。冷たくもなくぬるくもなく、まるで私の体温みたいに馴染みがいい。心地がいい。
 大きく息を吸い込むと、外と夜と彼のにおいが鼻腔を抜けて肺いっぱいに広がった。
 窓を開けておいて正解だった。今夜はなんとなく会えるような気がしていたのだ。


「いらっしゃい」


 声をかけると網戸の外に影がひょっこり現れた。背中から煌々と月明かりを浴びる姿は逆光で、表情もなにも窺えない。けれど「起きてたか」と応えた声は心なしか嬉しそうに聞こえた。きっと私が寝ていると思って、大人しくベランダで過ごすつもりだったのだろう。
 甚爾はあまり私の日々に干渉しようとしない。べつに踏み込んでくれたっていいのだけれど、私がそんなような雰囲気を発すると、途端に線を引いた向こう側へ下がってしまう。例えるなら尻尾をひるがえす猫のよう。首輪のない野良猫さん。そんなところが可愛くもあり、彼のことは気に入っている。

 ベッドから体を起こす。スリッパを履いて、電気はつけない。コーヒーを淹れるくらいなら月明かりだけで十分だ。


「ご飯は?」
「食ってきた」
「またラーメン?」
「いや、高級ヒレ肉」


 いいだろうと言わんばかりの声は、自慢気に口角をつり上げた。安いカップラーメンで満足する甚爾の舌のこと。肥え具合はたかが知れているけれど、それでもよほど美味しかったに違いない。
 ヒレといえば数ある部位の中でも一等柔らかい赤身だ。牛の背骨の両側に沿った棒状の部分で、動かすことが少ないからこそスジがなくしっとり柔らかいらしい。ちなみにこの中でも特に肉質が揃っている真ん中部分が、かの有名なシャトーブリアンである。テレビの中で芸能人が食べている姿をたまに見る。
 私は一般庶民なので当然味わったことがなく、人生に一度は食べてみたいなあと思う。高級お肉はちょっと得意じゃないけれど。


「いいなあ」
「だろ? ちゃんとした店なだけあって美味かったよ。土産でもと思ったんだが、あいにく持ち帰りはやってねぇらしくてな」
「ありがと。気持ちだけもらっとくね」
「食いてぇなら行くか? なまえがいいなら、次の休みにでも」
「連れてってくれるの?」
「ああ」
「え、嬉しい」


 冗談じゃないんだ。次、休みいつだったかな。インスタントコーヒーを混ぜながらシフト表を確認する。三日程候補を告げると最短日が空いていると言うのでお願いした。店の予約は、日が昇ってから知り合いに頼むらしい。
 何を着ていこう。久しぶりに胸が躍る。高級お肉を扱う店ならドレスコードがあるかもしれない。
 そういえば、甚爾と外食なんて初めてだ。今まで仕事終わりを待ち伏せされていることは何度かあったけれど、一緒にどこかへ出かけたことはない。私の家に直行か、スーパーに寄って食材を仕入れるくらいだった。そもそも甚爾が訪ねてくる時間帯は夜中が大半を占めている。不満はない。その他大勢と共有するより二人っきりの静かな空間の方が好きだった。聞いたことはないけれど、たぶん甚爾も。
 とはいえ、お誘いは素直に嬉しい。

 二人分のマグカップを手にテーブル脇へ腰を下ろす。座る場所なんていくらでもあるのにわざわざ私の隣を選んであぐらをかいた甚爾は「楽しみだな」と口の端で笑った。いつも気だるげで何を考えているのか読めない瞳が私を映してゆるまる様は、何度見ても愛おしい。私も楽しみだよ。

 コーヒーの香りが和やかに浮遊する。ほろ苦くてあたたかい、まるで甚爾の体温みたいな、甚爾に似合いの香りが夜を彩った。


title alkalism
23.10.11

Request:甚爾
誰にも邪魔されない、ふたりぼっちの夜の話。寂しくない感じ。詳細はお任せ。

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