神さまの水たまり




 海が光っていた。比喩ではない。今にも降ってきそうな星の下、重なる波を青白い発光体が縁どっている。地平線に浮かぶ月は小さく丸く、ずっと遠くに見えていた。
 靴を脱ぐ。ついでに靴下も脱ぎ捨てて、私を呼んだ勝己に背を向け、乾いた砂の上を素足で歩く。足が沈む感覚はビーズクッションに埋もれるそれと似ていた。


「おい、靴、靴履けなまえ。なに転がってっかわかんねえだろ。おい」


 勝己の声と足音が、背後からだんだん近づいてくる。慌ててはいない。急いでもいない。彼は私が逃げないことを知っていた。
 その余裕を一度でいいから崩してみたくて、お構いなしに海へと進む。勝己の声が大きくなって少しの焦りを孕んで鼓膜へ届く度、私の頬は緩んでいった。
 気分がよかった。あの勝己が、オールマイト以外の誰にも影響されない絶対的暴君である勝己が、ちっぽけな私ひとりのたった一歩で動揺していく。嬉しいと思う。とても幸せなことだと思う。

 爪先が海水に触れる手前。強く後ろへ引き寄せられて傾いた私の体は、あえなく勝己の逞しい両腕に捕まった。呆れたような、怒ったような、拗ねたような。そんな含みを宿した低声が、まるで叱るように私を呼ぶ。こんな風に抱き締められたかったのだと可愛く嘯いたなら、彼は許してくれるだろうか。
 頭の中で思い描いて、ちょっと笑う。ないなあ。ないない。絶対に。


「ちったぁ聞けや。耳ついとんかコラ」
「ごめんごめん。そんなに心配?」
「うるせえ」
「都合が悪いとすぐそう言う」
「べつに悪かねーわ」


 唇の隙間から苦笑がこぼれた。不器用な人だ。心配なくせに、平気で強がる。女の子って生き物は、たとえヒーローを目指していても好きな人から心配されれば満たされてしまえるし、もちろん私も例外ではないのに仕方のない人。私を喜ばせられるせっかくのチャンスを逃すだなんて、馬鹿な人。私の大切な、世界でたったひとり愛おしい人。

 揺蕩う光が寄せては返す。強くやさしく、それでいて鮮やかな光量は、さながら青い炎のようだ。波の音が静けさを一層際立たせ、磯の香りが鼻先を撫でる。
 夜の海は好きだった。日々の煩わしさも息苦しさも重圧も、さらっていってくれるから。私を取り巻くすべてがどれだけ矮小か、私がどれだけ世界にとって取るに足らない存在か、きれいに教えてくれるから。

 皮膚の外側から、勝己の温度が染みてくる。

 


 どれくらいそうしていただろう。勝己の腕の中は心地よく、ついつい時間を忘れてしまっていけない。そろそろ帰らないと相澤先生に叱られてしまう。


「勝己」


 ゆるやかな波音に私の声が紛れていく。


「今日は付き合ってくれてありがとう」
「んだ急に。気色わりぃ」
「ひどいなあ」


 素直にお礼を言っているというのに、どこだろうといつだろうと決してブレない勝己にそっと安堵する。いくら暴言と言えども勝己のそれは傷付けるために発せられた言葉ではない。だから不思議と、私が傷付くこともない。
 安寧と安息によどみなく包まれた今この瞬間が、時間経過と共に降り積もる。宝物が増えていく。


「そろそろ帰ろっか」
「の前に靴履け」
「はーい」



title 徒野
23.11.12

Request:爆豪
夜の海に一緒に行きたい


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