弱音は言えなかった。

立派なヒーローになること。皆を救うこと。誰も泣かない世の中にすること。どれもこれも、私自身が思い描いた夢だ。難しいことなんて知っていたし、疲労を伴うことも、大変だってことも分かっていた。それでもこの道を選んだのは、他でもない私。

だから、皆の前では笑っていようと決めていた。単なる強がりだったかもしれない。弱音を吐くことで露呈する自分の弱さを、ただ認めたくないだけかもしれない。わからない。深く考えると、どんどん気持ちが沈んでいく。今日はだめ。何も考えないようにして、思考を閉じる。

疲れたなあ。


鉛のように重い足を引きずって、更衣室を後にした。なんとなく霞む視界は、瞼を擦って誤魔化す。なのに、黒い靄が消えてくれない。おかしいなあ、なんて瞳を細めれば、聞き慣れた低音が「みょうじ」と私の名前を呼んだ。そこでようやく、黒い靄が消太さんだって気付いた。残業でもしていたのだろうか。体育館のこんな所にいるなんて珍しい。


「お疲れ様です」
「ああ、お疲れ」
「用事ですか?」
「まあ……用事と言えばそうだな」
「?」
「ちょっと良いか」


息を吐いたその瞳は、なんだか少し、迷っているように見えた。もちろん答えはイエスだ。たとえどんなに疲れていても、早くお風呂に入りたくっても、消太さんに割く時間なら喜んで作れる。教師としての厳しい相澤先生も、恋人としての優しい消太さんも好きだった。


四角い窓の外。真っ暗な空に映る自分を横目に、廊下を進む。

消太さんの三歩後ろ。生徒としての距離を保ったまま職員室の手前で立ち止まれば、くしゃりと髪を撫でられた。いい子、の意なんだろうか。胸の内がふんわりあったかくなる。

でも、依然として疲れは飛ばないまま。引き上げていた口角も、彼が職員室へ消えた途端、力が抜けてしまった。いつもなら、何もかもが全部吹き飛ぶほど嬉しいのに、やっぱり今日はだめな日だ。


「大丈夫か」


いつの間に戻ってきたのか。降ってきた声に、慌てて頷く。
息を吐いた消太さんの、心の内は見えない。バツが悪そうな、まずったって感じのこの表情は、近頃良く目にする。

連れられるまま、足を踏み入れた職員室にはマイク先生がいた。関係がバレてしまうのではと焦ったけれど「お前らの仲は知ってるからな」なんて茶目っ気たっぷりにウインクされて、胸を撫で下ろす。なんだか嬉しい初耳だ。

「おい、絡むな」って消太さんの鋭い声に笑ったマイク先生は、早く行けと言わんばかりに、しっしっと手を払った。


パチッ。
電気がつけられる。

職員室の奥にある扉の向こう側は、こんな風になっていたのか。
簡易ベッドへ腰を下ろしながら、ぼんやり思う。まあ、皆プロを兼任している先生なのだから、仮眠室があったって何ら不思議ではない。

隣へ座った消太さんの片腕が回され、ゆるやかに引き寄せられる。肩へ頭を預ければ、髪を梳いていく大きな手。ほんの少し躊躇いを孕んだ優しい手つきに喉が震えて、少しの間、何も言えなかった。


「……マイク先生は見張り役?」
「ああ。部屋よりは安全だろ」
「そうね」


二人っきりの時に、敬語は要らない。
状況に応じてきちんと使い分けられて、尚且つうっかりバレる心配のない女だと判断したからこそ、消太さんから提案してくれた約束事。

幸せだと思う。好きな人が認めてくれて、大切にしてくれる。だからこそ、もっと頑張らなければ、とも思う。期待には最大限の結果で応えたい。その為には、努力を惜しんではいけない。弱音を言っちゃ、いけない。


「何かのご褒美みたい」
「……こんなことで良いのか?」
「うん」


安い奴だな。
そう笑った消太さんは、一呼吸置いて手を止めた。


「そんなに身構えることじゃないが、今から言うことは、俺個人の意見として聞いてくれ」


そんなかしこまった前置きに、目を伏せる。

消太さんが嘘をついたことは、一度だってない。だから彼の言う通り、身構えるようなことじゃないのだろうけれど、少なからず真剣な話であることは、なんとなく分かった。再び髪を梳きはじめた愛おしい指先が、ひどく私を心配していることも、同様に。


「お前は自分の個性を良く知っているし、頭が回る上に機転も利く」
「……うん」
「他の先生方からの評価も高い」
「そう、なんだ」
「ああ。だからもう少し息の仕方を覚えろ」


ゆっくりでいい、と、消太さんは言う。


「必要なものを吸い込んで、不要なものは吐き出していけ」
「不要な、もの……?」
「いっぱいあるだろ」


語りかけるような、諭すような、囁くような、あやすような、落ち着いた低音。まるで水面に落ちる雫のようなそれが、私の心へ波紋を広げては、滲んでいく。

斜め上を見上げると、眉を下げた柔らかな眼差しに包まれた。


私にとっての不要なものって、何だろう。
今抱えているのは、このどうしようもない疲労と、認めたくない弱さ。上手くスキルアップ出来ないことへの、憤りや不満、焦燥。胸の痛み。頑張らなきゃって重圧。

ああ、そっか。


「要らないもの、ずっと持ってる」


胸が、喉が、鼻が、熱い。
目の奥すら覆ってしまった熱に、視界が滲む。

つ、と頬を伝ったのは、何年かぶりの涙。とても緩やかに溢れたそれを、消太さんの薄い唇がさらっていく。

震えたのは、吐息。上擦りそうな声にのせ、不純物をひとつひとつ濾過していけば、あまりにも優しい愛情だけが胸に残った。

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