何も言わない。何も聞かない。
ただそこに居て、ただ、視線を交わす。
私たちの関係は、他人とさして変わらない曖昧なそれら全てで形成されていて、それでも十分、繋ぎとめていられた。水槽の中で息をしているような、小さな花が綻ぶような、とても穏やかな空気感が夜の教室に揺蕩う。
「わざわざすみません」
「ああ。次はないと思え」
「気を付けます」
厳しい言葉とは裏腹に、その淡白な眼差しは、ひっそりとした優しさを秘めていた。
差し出した答案用紙が、ファイルへしまわれる。私が熱を出して休んだ分の特別再試。本来なら全てマイナスになるところをこうして補わせてくれるのは、完全に相澤先生の厚意だった。なんだかんだ甘い人。そう言っていたのは、リカバリーガールだったか。
「体調はもういいのか?」
「はい。すっかり元気です」
安堵を孕んだ溜息が、鼓膜にすうっと馴染む。伸ばされた温かい手は、いつもそうするように私の頭をぽんぽんと撫でて、離れていった。
縋ることはしない。もっと触れてほしいだとか、言葉が欲しいだとか、そんな自分勝手な願い事は心の中だけに留める。
良い子でいたかった。ただの先生と生徒。それ以上の肩書きは、まだ先生が秘めたままでいてくれている。先生自身の為であり、私の為でもあった。その均衡を、私が崩してしまうわけにはいかない。大人じゃない。でも、遠いようで近しい未来へ、考えが及ばないほど子どもでもない。
じ、と私を見下ろす瞳に、微笑んでみせる。言葉がなくたって、先生の考えていることなら、なんとなく分かってしまうのだから不思議だ。
「私、幸せです」
こうして傍でいられて、時折頭を撫でてくれて、極たまに指が触れ合って。たったそれだけのことで、幸せになれる。決して強くはない。でも、弱いわけでもないこの心が、平行を辿っていられる。
「これからも、きっと幸せです」
「……そうか。その強さは大事にしていきなさい」
「はい」
しっかり頷けば、先生の口端が小さく引き上げられた。
「先生は幸せですか?」
「ああ。そこそこな」
再び頭を撫でられ、ふわりと浮遊する幸福感。私しか知らない些細な特別が、その手のひらに眠っていた。