誕生に幸福を添えて
「なまえ、……おい、なまえ」
繰り返し聞こえる低音はひどく穏やかで、ふわふわと浮上した私の意識を更に引き上げていく。
瞼を開けて、ぼやけた視界がクリアになる、ほんの少し手前。「いつまで寝とんだ」とかき撫ぜられた前髪が上げられ、額に触れたのは、カサついた感触。
「おはよ、勝己くん」
「はよ」
ぶっきらぼうな挨拶に、思わず笑ってしまう。手を伸ばせば、大きな手に腕を掴まれて、そのまま引き起こされた。
おはようのキスはしてくれても、抱きしめてはくれないらしい。照れくさいのか、面倒くさいのか。勝己くんの行動は、昔からよく読めない。そんなところも好きだからか、どうしようもなく幸せだと思う。いつも早くから事務所に向かってしまう彼が、こうして朝から傍にいるのは、同棲するようになってからも数えるほどだった。
「今日、休みだったんだね」
「わざわざとったんだよ」
「それって、私のため?」
「てめえ以外に誰がいんだクソ寝坊助」
容赦なく鼻を摘まれて、呼吸が滞る。せめてもの抵抗に、ぺちぺち腕を叩いてみれば、悪戯っ子のように口角を上げた勝己くんが、小さく笑った。
さっさと顔洗ってこい、なんて。もう。
言われるままに腰を上げ、洗面室で軽く身支度を済ませてからリビングの扉を開けると、紅茶のいい香りが鼻腔をくすぐった。
ついこの間、寒さに弱い私のために、わざわざ買ってきてくれた炬燵へ脚を入れる。
目前には、お気に入りのティーポットと、色違いのティーカップ。注がれるのは、私が好きなメーカーのアールグレイ。炬燵とは随分ミスマッチだけれど、好きなものがたくさん詰まっている状況に、頬が綻ぶ。
勝己くんが用意してくれたのだろう。キッチンから、またもやいい香りとともにやって来た彼の手には、美味しそうなシュガートースト。甘い物も香りも得意じゃないはずなのに、私のために頑張ってくれたのかと思うと、途端に嬉しさが広がった。
「なんか、お姫様になった気分」
「ハッ、やっすい姫さんだな」
「勝己くん限定だけどね」
「たりめえだ。じゃなけりゃぶっ殺す」
いつもの暴言が優しく響くのは、それだけ彼の心も穏やかだということか。
隣に座った勝己くんの肩が触れる。あたたかいトーストを咀嚼しながら視線を滑らせた先には、小さな卓上カレンダーがあって、今日の日付に、ちゃんと赤い丸がついている。
まさか覚えてくれていただなんて。昨晩は言葉すらなく眠ってしまったから、てっきり忘れられているものだと思っていた。
「勝己くん」
「あ?」
「ありがと」
お揃いのティーカップで両手をあたためながら、今日という日に感謝する。炬燵と勝己くんから伝わるぬくもりが、なんとも心地いい。まるで心ごと包まれているような錯覚に愛しさを掻き立てられて、さっきから胸がいっぱいだ。
「まだ一日始まったばっかだろが」
「そうだけど、もう十分幸せだよ」
「アホ。この程度で満足してんじゃねぇわ」
ビシッと弾かれた額。
学生の頃、よく教室でくらっていたデコピンに懐かしさが浮かぶ。
あの頃は、こうしてひとつ屋根の下で暮らすようになるだなんて思いもしなかった。それだけじゃない。爆豪くんだった呼び方が"勝己くん"になることも、モブやクソではなく、彼が私の名前を呼んでくれる日が来ることも、想像出来なかった。
もそりと動いた勝己くんに合わせて、空気が揺れる。後ろから抱き竦められたかと思うと、耳元で響いたのは私の名前。
「なまえ」
本当にどうしたのってくらい、今日は機嫌がいいらしい。
お腹に回された逞しい腕に引き寄せられ、振り向くことすら許してくれない彼が、小さく息を吸う。
少し照れくさそうに、それでいて、呟くように紡がれた言葉は、私の涙腺をいとも容易く刺激した。