定期をかざし、バスから降りた。
どんより曇った灰色の空は重く、湿っぽい空気が肌にまとわりつく朝。

せめて校舎に入るまでは。
そんな願いもむなしく、鼻先へ落ちてきたのは水滴だった。ぽつぽつと降り始めた雨に、停留所内で足を止める。

あいにく傘は持ち合わせていない。今日に限って寝坊してしまったのは、連日続いているバイトのせいか。ちょっと待ってても、やまないだろうなあ。


傘を広げる音が連なって、同じ制服を着た学生達が通り過ぎていく。こっそり顔見知りを探してみたけれど、見当たらなかった。仕方ない。濡れるのは嫌だけれど、遅刻するわけにもいかない。

そう、駆け出そうとした時。


「みょうじ?」


不意に呼ばれた名前に振り向くと、ビニール傘をさした夜久さんが立っていた。

中学一年の時、私の初恋を綺麗にさらっていった二つ上の先輩だ。バレー部である彼が、こんな時間に登校だなんて珍しい。


「おはようございます」
「おはよ。電車で見ねーなって思ってたけど、バス通だったんだね」
「入学に合わせて引越したので……」
「そかそか。クラスには慣れた?」
「はい」


持ち前の親しみやすさは相変わらずのようで、なんとも胸がくすぐったい。

夜久さんが音駒に入学してからというもの、顔を合わせる機会がぐんと減ってしまったけれど、それでも忘れずに覚えていてくれた人懐っこい笑顔に、気分が晴れていく。


「誰か待ってんの?」
「いえ……傘忘れちゃって、ちょっと躊躇ってるとこです」
「じゃあ入っていきなよ」


言うが早いか。隣へ並んだ彼の腕が、私の背中を軽く押した。自然と前へ出た足は、驚きに固まってしまった思考を置き去りにして、ゆるやかに進む。


雨を弾く音。二人分の足音。
傘をさしてくれているその肩が触れ合う度、心臓が大きく脈を打つ。久しぶり。本当に久しぶりの、夜久さんの隣。

すみません、と絞り出した声は、少しだけ震えた。


「いーよ。みょうじが風邪引いたら大変だし」
「有難うございます」


朝練は体育館の補修工事で休みなのだと、教えてくれた。久しぶりにゆっくり寝たら、こんな時間だった。そう苦笑した彼につられ、私の頬も自然に緩む。緊張すら簡単にほぐしてしまうこの空気感が、中学からずっと好きだった。

淡いというには長い、積もりに積もった想いへ急かされるまま、ほんの少しだけ肩を寄せる。静かな雨音が遠くに聞こえる傘の下では、どうしてか、彼の声だけが鮮明に響いた。



幸せって、あっという間。

生徒の姿がまばらに窺える校舎の中。たたまれた傘に名残惜しさを感じながら、もう一度、お礼とともに頭を下げる。夜久さんは「気にしないで」と、笑った。


「あ、置き傘とかある?」
「いえ、ないです」
「帰りさ、まだ雨降ってたら体育館おいで」
「え?」
「傘貸す。俺部活だし、なくても平気だから」


ああ、きゅんとした胸が痛い。

本当は大丈夫だって言わなきゃいけないのに、借りに行けばまた会う口実が出来るなあ、なんて考えてしまう。ずるい私。でも、だって、仕方ない。こんな私を甘やかす夜久さんがいけないんだ。


「じゃあ、お願いします」
「ん!授業頑張れよー」


ひらひら振られた手へ笑みを返し、靴箱へと向かう。

私が占領していた反対側。
見た目よりも、随分男の子だったその肩が湿っているように見えたのも、「雨だったら良いのにな……」って聞こえたのも、きっと気のせいじゃない。

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