しんとした静けさの中、冷ややかな夜風が頬を撫でていった。ベランダの柵に腕を置いて、息を吐く。眼下に広がるのは、もう随分と見慣れた街並み。

消太さんの帰りは、いつも遅い。

それでも、待っている時間さえ愛おしく感じられるのは、左手の薬指を占領するサンタマリアのおかげだろうか。月明かりへかざしてみれば、透き通ったクリアブルーが控えめに輝いた。まるで、海を閉じ込めたような色。


目を閉じれば、泣いてしまった学生時代や、結婚当初の淡い記憶が蘇ってくる。たくさんの優しさに包まれてきた私は、なんて贅沢なんだろう。

そんな幸福に浸っていると、聞き慣れたエンジン音が近づいてきた。間違えるはずもない、消太さんの車だ。

慌てて室内に引っ込み、階段を駆け下りる。追焚のスイッチを入れて、作っておいた肉じゃがを温めて。二人分の食器は、テーブルの上。元クラスメートから結婚祝いにもらった、夫婦茶碗やお箸が活躍してくれている。


ガチャッ。

リビングの扉を開けたのと、玄関の扉が開いたのは、殆ど同時だった。


「お帰りなさい、消太さん」
「ああ。ただいま、なまえ」
「お風呂も沸いてるし、ご飯も出来てるよ」
「ん。ありがとな」


節張った大きな手が伸ばされ、くしゃくしゃ髪を撫でていく。

照明に反射して光ったのは、結婚指輪。
合理性に欠けるとか戦闘に不要だとか。そんな理由で、ずっとつけていてくれないだろうとばかり思っていたそれは、結婚してこの方一度もはずされたことがない。

嬉しい、と思う。
幸せだなあ、って思う。

全身真っ黒で、イレイザーヘッドとしてのスタイルは保ったまま。けれど結婚してからは、あんなに愛用していた寝袋を控えて必ず帰ってきてくれるし、お弁当を持たせれば、きっちり完食してくれるようになった。


「遅い時は起きてなくてもいいぞ」
「大丈夫だよ」
「待っているのも退屈だろ」
「これくらい全然。何年待ってたと思ってるの」


恋をして、皆の前で"消太さん"と呼べるまでにかかった年月は、決して短くない。それに比べれば、たったの数時間くらいどうってことはなかった。今みたいに、心底穏やかなその瞳に映ることが出来るのなら、むしろ待っていたいとすら思える。さっきみたいに、ベランダに出て、月明かりに照らされるサンタマリアを眺めながら、あなたのエンジン音をただ一心に。


消太さんは「それもそうだな」と、口端で笑った。そうして寄せられた薄い唇からは、コーヒー風味な幸せの味が広がる。

緩やかな愛を囁きながら私を包む眼差しは、今日も今日とて、優しかった。

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