この世界のどこかにある、深い深い海の底に、人魚姫の棲むお城がありました。そのお城では、齢十五の夜に、はじめて海から出ることをゆるされます。

ソラってなんだろう。ホシってなんだろう。ニンゲンって、どんな生き物だろう。

明日で十五を迎える末のなまえは、まだなにも知りません。ただ姉さん達から聞いた想像もつかない光景に胸をおどらせながら、貝殻のベッドで眠りにつきました。きっと寝る間も惜しんで夢中になってしまうだろうからと、明くる日の夜までたっぷり眠りました。


「行ってきます!」
「気をつけてね」
「危ないと思ったら帰ってくるのよ」


心配そうな姉さん達に笑みをのこし、なまえは、海底から上へ上へと急ぎます。どんどん光が眩しくなり、ついにちゃぷん、と顔を出した先。目の前に広がったまばゆい世界に、なまえは大きく瞳を丸め、ぱちぱち瞬きをくり返しました。どれもこれもめずらしく、すべてが美しい光景に、胸の高鳴りはとどまることを知りません。


「(これが、フネ……!)」


夜を照らす大きな大きな船とその灯りは、以前、姉さん達から聞いたものでした。泳げない人間が、海を渡るために造ったもの。もっと近くで見てみたい。だってこんなの、きっとめったに見れないわ。

そう思ったなまえは、船へ近寄ります。すると、船の先端につんつんした影を見つけました。まるでウニのようですが、風に揺れるそれはとてもやわらかそうで、薄い色をしています。さらに近づけば、精悍でいて整った顔立ちをした男であることがわかりました。なんてきれいなルビーでしょう。つまらなさそうに遠くを眺めている宝石のような赤い瞳から、目が離せません。なまえは、たった一瞬で恋に落ちました。

その瞬間。

突如吹いた強風が、船を襲います。かたむいた甲板から投げ出されたルビーの人は、海へ真っ逆さま。なまえは、急いで海の中へ戻りました。人間が泳げないことをよく知っていたからです。

ほんの一瞬、海の中ではじけた閃光を頼りに、自慢のヒレをめいっぱい動かします。ごぽり。口から泡をあふれさせ、力なく沈んでいく男の腕をしっかり掴んだなまえは、必死に泳いで、浜辺へと連れていきました。


「っ起きて、ねえ、起きて……!」


はじめて触れた砂がヒレにまとわりつくこともいとわず、声を掛けながら白い頬をぺちぺち叩きます。けれど、そのまぶたは閉じられたまま。人魚は溺れない生き物です。助ける方法など、知るよしもありませんでした。けれど、このまま放っておくわけにもいきません。なまえは考えます。

そうだ。唄はどうかしら。

なまえは唄が一等得意でした。お城の中でなまえが歌うと、みんな笑顔で聴き入るのです。


胸に手を当てて、乾いた空気を吸い込みます。どうか目を覚まして。どうか生きて。そんな願いを込めて、なまえは唄を奏でました。暗い月夜の浜に、切なくきれいな歌声が響き渡ります。すると、遠くから砂の音が聞こえました。誰かが来たようです。

なまえは慌てて海の中へ身を隠し、揺れる海面越しに様子をうかがいます。音の正体は、二本の足で歩く女でした。男を見つけるなり「王子様!」と声を上げ、急いで抱き起こします。なまえが恋をし助けた男は、なんと王子様だったのです。王子様は、どうやら目を覚ましたようでした。


「……けほ、」
「ああ、良かった。無事なのね」
「あ?」
「私が助けた時には意識がなかったものだから」


そんな会話とともに遠ざかっていく二人のシルエットに、なまえの胸はズキリと痛みます。姿を見せたくても、人魚の姿をさらすわけにはいきません。

あなたを助けたのは私。ほんとうは大声でそう叫んで、そのルビーに映してほしい。もっと近くで見せてほしい。私も人間になれたらいいのに。

そうは思うものの、人間になる薬を作るというこわい魔女のところへ、たった一人で訪ねていく勇気はありませんでした。


暫くは海から出ず、何度も忘れようとしました。けれど、脳裏へ焼きついたルビーが消えることはありません。どころか、日に日に想いは募っていくばかりです。せめてもう一目。話せなくてもいい。ただ、その姿を見るだけでいい。

溢れる情動のまま、ベッドから起き上がったなまえは、浜辺近くの海面へと向かいました。二人の背中を見送った場所から、こっそり顔を出して辺りをうかがいます。

誰もいない、夜の砂浜のすみっこ。そこには、あの日と同じ姿の王子様が、あぐらをかいて座っていました。船の上よりも、ずっと近い距離。変わらずつまらなさそうな横顔に動揺してしまったなまえのヒレが、ちゃぷりと海面を叩いた刹那。


「……、」
「……っ」


それはそれはきれいなルビーと、視線が交わりました。月明かりに照らされ、いっそ妖しく見えるそれが、大きく見開かれます。

ほんとうは、すぐに逃げるべきだと分かっていました。人間はおそろしい。姉さん達の言葉は、いつも間違ってはいません。けれど今のなまえにとっては、その瞳へ自分が映っていることの方が信じられないほど嬉しく、何億倍も大切でした。


「……おい」
「……」
「おい!」
「は、はい……」


ざくざくと砂を踏みしめ、海面ギリギリまで歩いてきた王子様がしゃがみます。投げられた少し荒い声は、今まで感じたことのない響きをともなって、なまえの胸中を大きく乱しました。


「てめえ人魚か」
「っ、」
「待てコラ!逃げようとすんじゃねえ!」
「っ……」
「チッ、別にとって食おうなんざ考えてねえわ」
「……ほんと?」
「ああ。だからこっち来い。聞きてえことがあんだよ」
「……、なんでしょう」
「あの夜、あれてめえか?」


王子様の言う"あの夜"がどの夜なのか、"あれ"が何をさしているのか、なまえにはすぐに分かりました。海面へぷくぷくと口元を隠しながら、小さく頷いてみせます。息を吐いた王子様は、砂浜へどっかり腰をおろしなおしました。

そうして「歌え」と催促するので、なまえはあの夜の唄を披露しました。緊張と戸惑いで声は少し震えてしまいましたが、それでも王子様には十分だったようです。「もういい。間違いねえわ」と、すぐに止められました。どうやらあの夜に奏でた美しい歌声は、王子様の耳へしっかり残っていたようでした。


「たくあのクソモブ、ろくに潜れもしねえくせに俺を助けただなんだ抜かしやがって……」
「助けたのは私です」
「わぁっとるわ。てめえ名前は」
「……なまえ」
「よしなまえ」
「?」
「城に来て、俺の嫁んなれ」
「!?な、なんで……」
「うるせえ。こちとらあのクソモブと婚約させられそうになってんだよ。俺の恩人だっつー話、クソ親父がバカ正直に信じちまっててな」


心底嫌そうに吐き捨てた、たいそう口の悪い王子様は、戸惑うなまえへ手を伸ばします。やっぱりダメだと分かっていました。それでも吸い寄せられるように体が動いてしまうのは、まっすぐに心臓をつらぬくルビーのせいでしょうか。

なまえの白く細い指先が、おそるおそる王子様の手へ触れます。はじめてのあたたかい人肌に、とくん、と胸が鳴りました。けれど人魚である以上、お城にお邪魔するどころか、陸に上がることすら出来ません。涙ながらになまえがそう伝えると、王子様はこともなげにハッと笑いました。


「その魚みてえなやつを足にする薬ってのがあんだろ?手に入るまでは水槽でも用意してやっから、心配すんな」


ぱちぱち。意外な言葉に瞬きをくり返すなまえは、しばらくの間、願ってもない幸せな申し出を、のみこむことが出来ませんでした。


それから数ヶ月。国の者は皆、口を揃えてこう言うようになりました。

"たいそう口の悪い王子様だからどうなることかと思ったんだが、お姫様は優しい目をしたきれいな方でね。毎朝美しい歌声で、国中を幸せにしてくれてるよ"

めでたしめでたし。

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