好きですって、言えたらよかった。
ただ嫌われることが怖くて、ヒーローになるための学び舎で何を考えているんだって呆れられることに怯えて、結局良い生徒でいることしか出来なかった三年間は、とても苦しかった。その手に背中を押される度、私の心はいつも後ろを向いていたように思う。
忘れようとした。諦めようともした。ダメだって何度も言い聞かせた。それでも、瞼の裏へ浮かぶその背中すら消せやしないまま、大人になってしまった。
「まさか、こんな所にお前がいるとはな」
「仕事で来たんですよ」
「まあ、そうだろうな」
黒を基調とした暗い店内。たくさんの声をかき消す静かなBGMが、私と先生の空間を隔絶する。バーカウンターへ片腕を置いて、慣れた様子でウォッカを嗜むその姿に、あの頃の小汚さは微塵も見受けられない。きっと私と同じように、仕事帰りか何かなのだろう。
雄英を卒業してから丸五年。一度も会っていなかった元生徒に、どうしてこう易々と気付けてしまうのか。久しぶりに耳にする先生特有の低音は、あまり心臓によろしくない。
「立派になったな」
「先生のおかげです」
「お前が頑張った結果だ」
呟くようにこぼした「有難うございます」は、アルコールが揺蕩うグラスの中へと沈んでいった。
いつまで経っても、私達の関係は先生と生徒。そう思い知らされる現実が、ひどく痛い。こんな想いを引き連れたまま酒を飲むことになるなんて、とんだ誤算だ。いっそ酔った振りをして泣けたなら、この行き場のない感傷も少しは落ち着いただろうのに、あいにく分解力は人並み以上に持ち合わせてしまっている。今この空間に、私の味方はつくづく見当たらない。
「仕事は終わったのか?」
「はい。折角なので一杯だけと思って」
「そうか」
「先生は良く来るんですか?」
「いや。たまに付き合いで来る程度だ」
「じゃあ、いつもどなたかがいらっしゃるんですね」
「ああ」
彼女さんですか。喉まで出掛かったそんな言葉は音にしないまま、最後の一口と共に流し込んだ。
聞いたところで、私にはどうすることも出来ない。たとえ返された答えが肯定だろうと否定だろうと、この胸の痛みを逃がす術を私は知らなかった。
「すみません、もう行かないと」
「そうか。気を付けて帰れよ。これは払っておく」
「……じゃあ、私も一杯奢らせてください。少し強いけど、おすすめがあるんです」
平常心を身にまとって微笑みながら、最初で最後の恋を瞳の奥へしまい込む。忘れることは、きっとこれからも出来やしないだろう。でもまた五年先、今とは違った私がいるかもしれない。そんなバカげた期待を抱けるくらいには、やっぱり大人になってしまった。
先生へ贈るカクテル名をバーテンダーへ伝え、お代を置く。
「じゃあ、また」
「ああ。またな、みょうじ」
まるで”また明日”を交わすような軽やかさと、履き慣れたヒールの音を連れて店を出る。
ベネディクティンの甘みをウォッカで伸ばした、しつこさを感じさせないさっぱりとした風味。幾度となく私を独りにしてくれたジプシーが、どうか彼の舌へ馴染みますように。