知らない香水のにおい。言うなれば、その程度の些細な違和感だった。決定的な何かを見つけたわけでもなければ、私への接し方が変わったわけでもない。ただ最近、女の人と電話している姿を見かけることが多くなった。

気のせいだって何度も思った。そもそも、好きでもない女とだらだら付き合うような人ではない。それなりに傍にいて、それなりのことは分かっていた。だからこそ信じたいのに、魚の小骨みたいな疑心が、ずっと胸へ引っ掛かっている。


こんなに背中が遠いのは、やっぱり私のせいなのかな。手を伸ばせば簡単に触れてしまえたシャツの裾を掴む。訝しげに振り向いた勝己は、目が合うなり眉を寄せた。


「何つー顔しとんだなまえ」


相変わらず、人の機微には敏感らしい。普段は全然察してくれないのに、こんな時だけ彼は聡い。

ビシッと弾かれた額が痛んで、でも、もっと痛いのはそんなところじゃない。今にも震えてしまいそうな涙腺を抑え、口角を引き上げる。笑うって、こんなに難しかったっけ。そんなことを考えられるくらいには理性的な頭で、言葉を選ぶ。


「飽きたら言ってね」
「は?」
「ちゃんと、準備はしておくから」


よそ見をさせないような良い女になれる自信は、これっぽっちもない。勝己の隣に相応しいと思えたことすら、今までたったの一度もなかった。だから、偉そうなことなんて言えない。選択権はいつだって彼にあって、私はただ、選ばれ続けることを願うだけ。

握っていたシャツを離す。

言いたいことは言えたから、ボロが出ない内に帰ろう。そう片足を引いた瞬間、強引に肩を掴まれたかと思えば、ドンッて衝撃。壁へ押し付けられた背中が軋んで、痛いところが一つ増える。


「準備って何だ?あ"?」


眼前で地を這う低音は、いつにも増して怒っているように聞こえた。きちんと選んだ筈の言葉は、どうやら神経を逆撫でしてしまったらしい。謝罪を口にするよりも早く割って入った舌打ちに、胸の内側が歪な音を立てる。喉が引き攣って、上手く声が出なくて。

かわりにその胸元を掴んで額を押し付ければ、振り払われることなく、ぐしゃりと髪を撫でられた。不器用な手のひらに、目頭がじんわり熱を帯びる。泣いちゃダメ。押し留めた涙を瞼の中へ閉じ込めた時、後頭部を引き寄せられた。


「そうやって甘えてくりゃ良いモンを、何勝手に自己完結しとんだ」
「……ごめん」
「ったく、謝罪なんざいらねえわクソが」


苛立ちを逃がすようにこぼされた溜息が、大気を揺らす。珍しい。

そういえば以前、こうして怒鳴り散らすことなく抑えるのは、私だからだと教えてくれた。甘えを許容するのも、話を聞くのも、ちゃんと向き合おうとするのも全部、たぶん私だから。それが継続されているってことは、つまり、まだ気持ちがあるってことで。

違和感に掻き消されてしまっていた数多の特別が、じわじわ胸の内を覆っていく。勝己が求めているものが謝罪でないなら、じゃあ、この疑心を晒しても良いのだろうか。


「怒らないで、聞いて欲しいんだけど……」


そんな前置きをして、ひとつひとつ吐露していく。最後まで黙って聞いていてくれた勝己は、お決まりの舌打ちの後、鼻で笑った。そうして携帯を取り出したかと思えば「ん」と押し付けられる。画面には『ババァ』って文字が連なった着信履歴。


「それだろ。てめえの言う女ってのは」
「……ババァ、とは」
「あ?親だ親。てめえに会わせろってうるせえんだよ。何なら今かけてみろや」
「や、そこまでは大丈夫……」
「これで安心したかよ」
「うん」


呆れまじりに吐き出された「アホ」って暴言に謝る。拍子抜けしたような、ふわふわした心地。ようやく頭が追いついて安堵がふくらみ始めた頃、一気にせり上がった涙はあたたかい胸へ吸収された。

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