ある学校に、相澤消太という教師がいました。持ち前の合理主義をいかし、何人もの生徒をりっぱに送りだしてきた反面、見ために頓着のない小汚い男でした。
そんな相澤が、広大な学校の敷地内をのそのそ歩いていたときのことです。「消太さーん!」と、遠くのほうから声が聞こえました。タッタッタッ。駆けてくる足音は、ずいぶんと軽やかです。
誰であるのか、相澤は振り向かなくてもわかりました。真っ直ぐに空気をわたるその声が、ちかごろの悩みの種だったからです。
思わずこぼれそうになった溜息は、すんでのところで呑みこみました。顔を向け、”先生をつけなさい”と叱りかけたそのとき。
「「あ、」」
ずるっと足を滑らせた女生徒―――みょうじなまえは、そのまま相澤の視界から消えてしまいました。どぽん。そんな水音が、鼓膜をぬけていきます。
駆け寄った相澤は、目を見張りました。昨日まで何もなかったはずの地面。冬前に剪定した草が茂りはじめているそこには、人ひとり入るほどの大きな水たまりがありました。きっとみょうじは、ここに落ちてしまったのでしょう。
助けなければと思うものの、得体の知れない水たまりへ入るわけにはいきません。誰かの個性によって発生しているものかもしれないのです。飛びこんで、万が一自分の身に何かあった場合、誰かが気付いてくれる保証はどこにもありませんでした。ごく短い間で思考を巡らせた相澤は、首をひねります。
すると、突如水面が七色に光りはじめました。身構えた相澤の目の前で、ごぽごぽと水が盛り上がり、姿を現したのはなんと、ブロンドの女神さまでした。
「どうしてそんなに困った顔をしているのですか?」
「……生徒が、落ちてしまったので」
相澤は一瞬目が点になりましたが、なんとか真面目に答えました。いろんな生徒を相手にしてきた分、ある程度の耐性はついているのです。
気の毒そうに眉を下げた女神さまは、ふわりと両手のひらを上に向けました。
「不運にも落ちてしまったのは、この、とても物静かな女生徒ですか?」
女神さまの右手に、両手を前できゅっと握った、言葉通りとてもおとなしそうなみょうじが浮かびます。
「それとも、あなたへ関心がない女生徒ですか?」
今度は左手に、にこやかな明るい表情ではあるものの、いつものような好意がちっとも感じられない眼差しのみょうじが浮かびました。
どっかで読んだ話だな。
なんだか拍子抜けしてしまった相澤は、どこか他人ごとのように二人のみょうじを見比べます。
たしかに彼女は、もう少し落ち着いた方がいいと思うほど活発で、明るい生徒です。おまけに、相澤への好意を隠そうともしない姿には、ほとほと困っていました。だからこそ、悩んでもいました。しかし、決して嫌だったわけではありませんでした。
ぽりぽりと項をかいた相澤は、正しい答え方をさがすため、はるか昔にどこかで読んだ物語の続きを、記憶の中でたどります。
「俺は、嘘つきじゃないが正直者でもない。生徒を返してくれやしませんか」
「あなたの生徒は、どちらですか?」
「…強いて言うなら、足元も見ねえで走ってくるバカで、何度注意してもさん付けで呼んでくるバカですよ」
「ふふ」
相澤の物言いが可笑しかったようです。上品に笑った女神さまは「素敵な先生ですね」と一言残し、水面の底へと消えていきました。そうしてどんどん小さくなっていく水たまりから、少々雑に宙へ吐きだされた人影を、相澤が受け止めます。
「バカってひどいです!でも好き!」
ぎゅうっと抱きついてきた女生徒を「引っ付くな」と引きはがしながら、相澤はこっそり安堵しました。このうるささも直球さも温もりもすべて、間違いなく、とても大事にしているみょうじなまえだったからです。
めでたし、めでたし。