グラスを渡す時、一瞬だけ触れた指先に熱が灯る。

別に初めてじゃない。二人っきりで会うことも、家に招くことも、晩ご飯を振る舞うことも、泊まっていってもらうことも。それなのに、思わず口数が減ってしまうほど妙な気恥ずかしさに襲われるのは、私たちを繋いでいる関係性が変わったからだろうか。

単なる"同業者の知り合い"から"恋人"へと昇格したのは、ついこの間。彼女として会うのは、今日で三回目。


名前を呼ぶこと。話しかけること。今まで簡単に出来ていたそれらでさえ、なんとなくの躊躇いが先に浮かぶ。手探り状態とでも言えばいいのか。もっと普通でいいと分かっているけれど、程良い距離感が掴めない。


「仕事終わりにすみません」
「いえ、美味しかったです」
「……良かった、です」


何か話題を探さないと。
焦れば焦るほど、心臓の音は早く大きくなっていく。相澤さんが隣にいるだけで精一杯の思考が、なかなか上手く回ってくれない。恋ってこんなにドキドキしたっけ。脳裏に浮かんだ学生時代の青い思い出は、ただ懐かしいだけで何の役にも立たない。あの頃は本気で人を好きになんてならなかった。何もかもが、もっと簡単だった。

それでも、せっかくの時間を無駄にしたくはない。

さり気なく寄せた肩へ、体重を預けていく。吐息と共に、ゆっくり脱力した視界の端。ぴくりと震えたのは、ごつごつした相澤さんの手。基本的にクールな彼も、今は私と同じようにドキドキしているのだろうか。そう考えると胸が温かくなって、ちょっぴり気が緩む。愛おしい、好きって想いが膨らむ。


「相澤さん」と発した声は「みょうじさん」と私を呼んだ低音と重なった。お互いびっくりして、お互いどうぞって譲り合って、少しの沈黙が降りる。なんとなくの気恥ずかしさと、良い歳して何やってんだろうって可笑しさに吹き出したタイミングまでもがお揃いで、なんだか締まらない。


「相澤さんからどうぞ」
「あー……そろそろ敬語、やめにしねえかと思いまして」
「じゃあ、タメ口ついでにお願いがあるんだけど」
「何だ」
「その……名前で呼びたい、です」


少しの緊張を携えて、和らいだ空気に勇気を乗せる。不意に重ねられた大きな手に、心臓が跳ねたのも束の間。


「敬語はやめてくれって言っただろ。なまえ」
「……消太、くん」
「消太でいい」


視界いっぱいに広がったその表情は、緩やかな笑みを湛えていた。

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